お厚いのがお好き?


Pの密室・島田荘司(講談社)

 御手洗潔の子供時代の話。一編は5才の頃、もう一編は小学生の時代の物語である。小学校6年あたりのマジメな探偵役ってのは他にもあるけど、5才って……(笑)。それも二階堂黎人氏描く「ボクちゃん探偵」のようなものではないのだ。酸いも甘いも噛み分けた、人間の心の機微を読む5才である。因数分解をやる5才なんだから、推理くらい何でもないのだ。わっはっは。御手洗潔だから許されるが、新人作家がこれをやると袋叩きに会うだろうなぁ。しかし、御手洗潔が子供である必要は何もないぞ、これって。
 【鈴蘭事件】 推理のポイントは「そういう知識があるか否か」という点になってくるので、正直驚きはなかった。それよりも「大人が5才の子供の説得に応じるか」という点がひっかかって仕方がない。いえ、分かってますとも、御手洗潔なんだからオッケーなのだ。それにしても石岡クンってのは、度を超えてバカになっていくような気がする。これで物が書けるとは思えないのだが。ワトスン役は人並み以上に鈍いってのは定説だが、これは鈍いというよりも、どこか常軌を逸しているように見えるぞ。
 【Pの密室】 ああ、なんだかものすごく御手洗潔シリーズだわっ! 嫌いじゃない、嫌いじゃないぞ決して。実際の建築なんかを考えると、そう丁度とはいかないだろうとか、その偽装工作はあまりと言えばあまりなんじゃないかとか、つっこもうと思えばいくらでもつっこめるのだが(笑)、あまりに御手洗潔っぽい話なので、それだけで嬉しくなってしまってつっこむ気がおきないのである。トリックのために話を作るってのも、ここまでいけば見事だぞ。 (00.1.2)      

バベル消滅・飛鳥部勝則(角川書店)

 「殉教カテリナ車輪」で鮎川哲也賞を受賞した著者の、受賞後第一作である。
 最初は妙に観念的な話のように思えたが、章が進むにつれてパズラー的要素が強くなる。デビュー作と比べると、パズラーとしては随分こなれた感があるのだが、いかんせん「バベルの塔」がらみの蘊蓄が、「知ってることを書きました」ってな感じがして、退屈なんだよねぇ。まぁ、(作者には申し訳ないが)そのあたりの蘊蓄は斜め読みしても、パズラー自体を損するものではないので、いいかってなもんだが。
 パズラーとして割り切って読むと、なかなかである。これは騙される。お好きな方にとっては、かなりタマラナイ作りなのではないだろうか。緻密に張り巡らされた伏線、フェアな記述、怪しい雰囲気の中に織り込まれたヒント。ダイイングメッセージ、犯人らしき人物の独白、謎めいた美少女、離島──うーん、本格の道具建てはバッチリ、パズルとしてもキレイ。
 ただ。最終章の在り方については、賛否両論がありそうだ。それまでのせっかくの「雰囲気」がダイナシになっちゃったのは否めない。しかし、あの最終章は、あれ以外にはどうしようもなかったのではないか。「雰囲気」を持続しようとすると、謎解きの知的興奮は味わえなくなる。換言すれば、あの最終章があるからこそ、この作品は「新本格」たり得るのである。正直、雰囲気のある独特の世界は、文章のせいもあって、あまり魅力的とは言いがたい。むしろ、最終章でそれまでの世界観をぶち壊し、パズラーとして成立させたことで、「独りよがりの物語世界」が「知的パズル」へと変貌し得たように思えるのだ。 (00.1.5)      

透明な一日・北川歩実(角川書店)

 記憶を蓄積できないという病気──6年前の1月6日に起こった事故が原因で、そこからの記憶が長期蓄積できなくなったしまった男性。彼は毎朝「1993年1月6日」を生きる。その娘が、結婚の許しを得るために恋人を父に紹介するが、父親の心の中では娘はまだ中学生のまま──。そんな中で起きる、殺人事件。
 なんかね、事件そのものよりも、その健忘症の方に興味の主体が移ってしまった。毎日が「1993年1月6日」であるという状況はどんなものなのか。家族は、春でも夏でも、冷暖房を駆使して冬を演出する。面変わりした知り合いは若作りしたり、別の人物として紹介しなくてはならない。新聞も「1993年1月6日」のものを、特注して何度も使い回しする。たいへんだ。自分の記憶が混乱していることに気付いても、気付いたことすら、間もなく忘れてしまう。悲劇である。
 殺人事件の方も鮮やかだし、メインの仕掛けにも(もうちょっと伏線が欲しいよなぁ)充分驚かされた。娘の気持ち、そんな娘を愛する恋人の気持ち、その周囲の人々も細かく書き込まれている。かなり「盛り沢山」な内容で、ちょっと散漫になる部分もあるけれど、それが健忘症の父親を中心にリンクしていく様は見事だ。
 これまでの氏の作品は、「取材したんだぞーっ!」と蘊蓄披露ページが多かったりして、それがストーリーの流れを損なう部分もあったのだが、これはそういう問題もない。情報と物語が相乗効果を上げている。
 エンディングは切ないなぁ。この後が読みたいのに。 (00.1.6)      

銀扇座事件(上下巻)・太田忠司(トクマノベルズ)

 何をどう書いてもネタバレになってしまう。極力気をつけたいとは思うが、この作品は何の先入観もなしで読んだ方が楽しめるので、未読の方はここを読まない方が無難だと思います。
 さて、シリーズ初の上下巻である。読み始めて間もなく、このシリーズをずっと読んで来ている人は100%、違和感を持つと思う。第1章からして、明らかにいつもとノリが違うのだ。その思いはどんどん膨れ上がる。さすがにこれが××だとは判らなかったが、とにもかくにも真正面から受け取ってはいけないな、というのは馴染みの読者なら何となく気付くのではないだろうか。
 ただ、個人的な好みで言わせて頂けば、この上巻は結構好きである(笑)。野上さんがアキちゃんみたいになってるのには辟易したが、あたしゃ上巻の俊介がかなり好きだぞ。当人はイヤみたいだけどね。わはは。性格悪い証拠だな>あたし。ミステリとしても道具建ては揃ってるし、(動機はさておき)謎解きもキレイだし。下巻は、不思議興味の演出と、上巻の検証がメインになるために、同じ説明の繰り返しを避けた結果駆け足になってしまって、上巻に比べるとあっと言う間に事件が起こって終わってしまうように思えるのだ。そういう面でも上巻の方がこなれている。決してあたしが×××××が嫌いだから言ってるんじゃないぞ。なんかね、下巻より上巻の方にリキ入ってるような気がするんだよなぁ。いっそ、犯人も上巻と同じにした方が、「最も意外な犯人」になるように思うんだけど、まぁそうはいかないか(笑)。
 最後のオチ(?)に、ちょっと含みを持たせてあるのも特徴。現実的にも、超現実的にも、どちらにもとれる。あたしは現実的な方を支持したい(そうでないと本格としてはアンフェアでしょ?)のだけど、ただ、そうなると一点だけ、どうしても解決のつかないことがあるのである。やっぱ、超現実の方が真相なのか?──それはちょっと、イヤかも。 (00.1.7)      

タナトスゲーム・栗本薫(講談社)

 例えば東野圭吾や篠田節子みたいに、「ホントに同じ人が書いてるの?」というくらいの幅の広い作風を持ってる作家がいる一方で、作品の幅は広いんだけど作風は全部同じだなぁと思える作家もいる。その最たるモノが新井素子と栗本薫(ファンの人、ごめんね)だ。栗本薫は実に幅広い。本格推理、時代物、ヒロイックファンタジー、ホラー、ハードボイルド、コメディ、等など様々な作品を世に出している。んだけど、ここに来て一点に集約され始めてないか? もとからそういう傾向はあったが、しかし特に最近は露骨だぞ。その一点ってのは──やおい、である。
 いやもう、この世界が栗本氏のお家芸だってのは認める。六道ケ辻シリーズも伊集院大介シリーズも、吉川英治文学新人賞受賞作の「絃の聖域」も、そういう味付けだもの。でも、あくまでも味付けで、テーマや素材は別のモノを扱ってきた筈なのに、ここんとこ
「六道ヶ辻〜墨染の桜」でメインに持ってきたかと思えば、今度は伊集院大介がやおいの世界にかかわっちゃうし。「翼あるもの」じゃないんだからさー。ちょっと違うのも読みたいぞ。よほどこの手が書きたいのかな。
 やおい系同人誌を作ってるメンバーの中で起きる事件に伊集院大介が駆り出されるんだけど──なんか、伊集院大介&同人誌メンバーの口を借りて、作者自身がやおいについて述べてるだけって気がしてならない。長い長いエッセイを読んでる気分。アトムや伊集院が述べる「常識的意見」も、筆者の「やおい論」を展開するために「普通の人」を代弁させてるだけの役割にしか見えないのだ。
 おまけに推理小説としてはもう──そんなことで犯人見抜くなよ、てなもんだ。ちっとも本格じゃない。ってことはつまり、筆者が書きたかったのは本格ではなく、やおいにはまる人々だったということになる。だとすれば、あまりに描き方が単一的ではないか。もっともっと書ける人だってことは、すでに証明済みの大家なのになぁ。この手合いなら、「Jの少女たち」(太田忠司)の方が数段いいぞ。 (00.1.15)      

木曜の組曲・恩田陸(徳間書店)

 亡くなった作家の思い出を偲ぶため、毎年「うぐいす館」に集まってくる女性達。作家の死は自殺として処理されていた。しかし今年の集まりでは、何やら違う「真相」が出てきそうな気配──。
 うーむ、実に雰囲気作りの巧い人だ。舞台は最初から最後まで「うぐいす館」だけ。登場人物も最初から最後まで変わらず。物語は会話だけで展開する。まったく動きのない物語なのに、飽きさせない。特にラストは「なるほど、そうきたか」である。充分驚いてたんだけど、更に畳み掛けられてしまった。伏線もあったのにねぇ。巧いなぁ。
 ただ、なんか今一つ感情移入できないんだよね。中心にいる死んでしまった作家ってのが見えないだけに(エキセントリックな人だったってのは判るんだけど)、その作家が彼女たちに及ぼした影響や、彼女たちの傾倒具合ってのが今ひとつピンとこない。構成も真相も伏線も、とてもよく練られた緻密な推理ゲームなんだけど、「見えない人物」を介して結びついた人々の思惑が掴みにくく、そこに恩田陸独特の冷たい淡色のような雰囲気が加味されて、薄皮一枚通して舞台を見てるような気になるのだ。
 それと、物語の視点が一定していないために──それはそれで仕方ないことなのだけれど──ちょっと展開に戸惑うことがある。章や項で視点が変わるのはよくあるが、一つの台詞の前と後で変わられると……ちょっと混乱すると思わん? 感情移入できなかった理由の一つは、そこにあるような気がする。「この人は犯人から除外」という前提の、感情移入用の誰かがいた方がいいってことなのかなぁ? それも何だか幼稚だけど。うーむ。 (00.1.15)      

紫の悲劇・太田忠司(祥伝社ノンノベル)

 ホテルで男がの惨殺死体が見つかる。身元確認が難航しかけたが、何と死体は現在失踪中の名探偵・霞田志郎の名詞を持っていた──。霞田兄妹シリーズが久しぶりに戻ってきた。シリーズ第2部の始まりである。
 「上海香炉の謎」あたりのシリーズ初期作から比べると、本格テイストはかなり減ってる気がする。周到に張り巡らされた伏線、それらが結びついた時に見せる意外な真相、崩れた秩序の再構築──そんな「本格のレゾンデートル」はとりあえずこっちへおいておこう、というふうに見えるのよね。いやもう、「バロン」なんてイカにも本格なんですけどね(笑)。コナンじゃないんだから(^^;)。
 実のところ、今回はどうも、この「バロン」を書きたかったのではないかと思えるのだ。いや、正確には、「バロン」が背負って立つゲーム性の高い本格推理至上主義に対する、苦悩する探偵・霞田志郎の戦いを書きたかったのではないか。だって、肝心の事件の方は、読者が犯人を推理しようとしてもできないようになってる。(できるんだけど、あたしが気付かなかっただけか?)つまり、「犯人当て」小説ではないということになる。これが、これまでのシリーズの傾向と比べて最も変わったところのように思えるのだ。
 探偵としての「バロン」は間違っている。犯人探しはゲームではない。それを描いていくのが、シリーズ第2部なのではないか。霞田兄ちゃんの考え方に諸手を挙げて賛同する身としては、ちょっとこの先が見逃せない。それにしても「バロン」──故意になんだろうけど、なんか話がいきなり劇画チックになる気がするのは、あたしだけ?(^^;) (00.1.15)      

殺意の集う夜・西澤保彦(講談社文庫)

 ステキな教授を何とかオトそうとする園子に引きずられて、万里は教授の別荘へやってきた。しかし、別荘には留守番の男がいて、教授は奥さん共々留守だという。そこへ、土砂崩れで道が埋まったという情報が入って──。
 ある種の嵐の山荘モノである。ただ、実際には下界で起こる事件も並行して書かれるので、純然たるクローズドサークルではない。ただなぁ──読み終わった最初の感想は「うわぁ……」である。驚いた。確かに驚いた。最後の最後で明かされる真相にも確かに驚いたんだけど、それ以上に驚いたのは「これがしたいがために、ここまでの話を書いたんかいっ!」ということである。ある意味、すごい。
 判ってみれば、なるほどなるほど、細かい表現にとても気を使ってるのが判る。なるほどやられた、という気もする。するんだけどさぁ……なんか、ミステリの真相が分かった時のカタルシスや驚きってのとはちょっと違う気がするのよね。
 何が違うかというと、(ここから先は未読の人は読まないで下さい)それまで追ってきた事件の真相はいきなり、何の脈絡もなく明かされてしまって、「実は話のポイントはこんなところにあったんですよー」と言われても──読者の犯人探しモードの行き場がないのである。
「星降り山荘の殺人」(倉知淳)を読んだ時にも思ったのだけど、大仕掛けはいいんだが、そのために他の部分がなおざりになっては効果も半減するのではないか。この仕掛けには心底ビックリしたのは事実なので、料理のしようによっては秀逸な叙述モノができた気がするんだけどなぁ。 (00.1.16)      


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