お厚いのがお好き?


グラデーション・永井するみ(光文社)

 一人の少女の、14歳から23歳までを断片的に綴った、とても身近でゆったりとした成長小説。中学時代のキャンプ、高校に入って始めた部活、親友との出会い、教育実習生への憧れ、大学進学、恋、将来の進路。そういった、誰もが通り過ぎるような当たり前の日々が、決して派手ではなく、けれど丹念に綴られている。
 同じ方式の小説として思い出したのは、森絵都の
「永遠の出口」だ。これは好みの問題になるので一般化はできないが、「永遠の出口」の主人公が「あたし他の人とは違うんです」オーラを出していた(私見ですよ)のに比べると、本書の主人公の方がリアルで身近、つまりは共感できる。あまりにも普通で、普通であるが故に感情移入しちゃう。そうそうそうなのよー、うわあ、そうだったそうだった、とノタウチ回ったね。それは裏を返せば大きなドラマはない(小ドラマはちょこちょこある)ということなのだけれど、たいしたドラマもない一女性の10年間を断片的に綴っただけで物語にしているのがスゴイのだ。
 たとえば、高校に入ってすずという親友が出来たくだり。とっかかりは他愛ないことだけど、二人は次第に無二の親友になっていく。そしたら、中学時代の親友が妬くのよ。うん、あるある! けれどそれだけじゃない。このすずって少女は家庭の事情もあって、とても自立心の強い子。そんなすずを見て、18歳の主人公・真紀はこう感じる。
 「東京のビジネススクールを志望していたすずが、一言の相談もなく、シンガポールへの留学を決めてしまったことに、真紀は少なからずショックを受けていた。逆の立場だったら、真紀は逐一すずに話し、どうしようかな、と相談を持ちかけていただろう。すずがそうしなかったのは、自分の将来は自分で決めるという自立心故なのだと思い、眩しく思うと同時に、寂しかった。置いてきぼりをくらったような気がした」「祝福してあげたいのに、寂しさが先に立つ。自分が子どもに思えた」
 ね、普通でしょう。むしろ、すずの方がヒロインに相応しいんじゃないかと思うほど、真紀って普通でしょう。でも、それがいい。この年頃の、女友達がいかに大切かという思い。けれど同時に女友達はライバルでもあり目標でもあるという思い。アンビバレントなのよ複雑なのよ。もう、昔を思い出して思い出して、どれだけ甘酸っぱいか!
 けれど本書の真骨頂はこのあとだ。高校を卒業し、大学に入り、恋を知り、教育実習に出かけ、就職して──という一連の中で、真紀はいつしか、すずの良いところを自分のものにしていく。すずだけでなく、出会った人からいろんなものを吸収し、それらを混ぜ合わせて自分の色にしていく。一晩寝たら成長していたなんてことはないわけで、人ってのは、こうしてゆっくりゆっくり、どこで変わったか分からないうちに変わって行くものなんだなあとしみじみ思う。その「どこで変わったか分からないうちに」を、本書は実に巧みに、けれどさりげなくすくいあげている。それに気づいて初めて、タイトルの意味が分かったのだった。   (08.1.2)《詳細情報&注文画面へ》 


カッサンドラの嘲笑・太田忠司(ジョイノベルス)

 〈探偵・藤森涼子の事件簿〉シリーズ5冊目。13年で5冊って! でも実は涼子ちゃんがあたしと同世代(つか、どの巻で認識したかは忘れたが同い年じゃなかったかな?)で、その上、ちゃんと出版年に合わせて年をとってくれるので、ひとりの同世代の女性の変化をリアルタイムでずっと見ているという面白さがあるのさ。前作で37歳だった涼子は、本作では四十路に入ってます。
 前作
「追憶の猫」でついに独立、自ら所長となってネット上に「藤森涼子探偵事務所」を開設した涼子ちゃんが、個性的な部下3人を率いて所長として事件に当たるってのが今回の内容。若い頃はもう、突っ走るだけ突っ走って、その結果自分も大きく傷ついていた涼子ちゃんだけど、さすがに四十路に入った落ち着きかそれとも所長という立場故か、まえほどの「被害者や犯人への感情移入」が無いのが大きな変化。まあ、感情移入しようにも、被害者にも犯人にもイマイチ共感しにくい犯罪ばかりだからなー。むしろ涼子ちゃんを動かしているのは怒りだ。加えて、三人の所員を抱える所長となった涼子ちゃん、彼女たちの「事件に関わる姿勢」こそが眼目であり、彼女たちとリーダーである涼子ちゃんの関わりこそが読みどころと言えましょう。
 そのせいなのか何なのか、身近なリアリティに満ちていたこのシリーズにしては、依頼人や対象人物が意外なほどエキセントリックでやや驚いた。だってねえ、初対面なのに自分で自分のことを「わたしは……カッサンドラなのよ」と思わせぶりに語ったり、「(私は)沈黙するバンシー」なんて真面目に名乗るあたりがもう既に芝居がかってるってえか勘違いしてるってえか、まぁできればあまりお近づきになりたくないお人柄ではないか。だって普通なら前者は「私の言うことって、当たってるのに信じてもらえないのよねえ、困っちゃうわ」で済むし、後者なんか「××でバンシーを名乗っていたのは私です」で充分だ。わざわざカッコつけて言うことか。まあ、後者は若さ故の思い込みの激しさだろうから理解できなくもないが、とまれ、そんなヘンな自意識を持ってる人々と渡り合わねばならない涼子ちゃんに同情至極。
 三作目に甘栗クンが登場したのがファンには嬉しい。三人の所員もそれぞれワケアリで個性的で魅力的だし、もしかしたらこれからこのシリーズは涼子ちゃんがかつての一宮所長のような役割を担っていくのかも。寂しい気がする一方で、人間はひとつところに留まっていられるものではなく、四十路にもなれば独りよがりな正義感だけで突っ走ることがなくなるのは当然だ。そう考えると、これもまた確かに藤森涼子シリーズとして充分あり得る展開。むしろ年相応。上司を殴りキュウリを腐らせてた涼子ちゃんに共感した二十代のあたしも四十代になり、人を使う立場になった涼子ちゃんにやはり共感しているのであった。作中で時間の流れるシリーズの醍醐味は、ここにあるのだ。    (08.1.4)《詳細情報&注文画面へ》 


温かな手・石持浅海(東京創元社)

 寛子が同居しているギンちゃんは、見た目は感じのいいイケメン男性だが、実は人間ではない。人間の生命エネルギーを吸収して生きているまったく別種の生命体なのだ。寛子が摂取した余剰カロリーやパニックに陥ったときの「気の乱れ」をギンちゃんが摂取する習慣になっており、世間的には恋人のふりをしている。しかしギンちゃんにはスペシャルな能力がもうひとつあった。それは謎めいた事件をたちどころに解決する推理力で──。
 最初は、ちょっと変わった造形の探偵ってだけの、軽めな連作ミステリだと思って読み始めた。2作目の、キャンプ場で起きた心中事件の謎を解く【陰樹の森で】をまえもってアンソロジーで読んでいたせいかもしれない。研究室での死体が他人の白衣を着ていた理由を推理する【白衣の意匠】、ギンちゃんの妹・ムーちゃんが痴漢に遭う【酬い】、カードばかり使っている男が高額な現金を持って死んでいた【大地を歩む】、ギンちゃんと寛子の出会いを振り返る【お嬢さんをください事件】、そして子豚を連れた女性の打ち明け話を聞く【子豚を連れて】までを読んだ時点では、その印象にさほど変化はなかったのよ。
 あ、もちろん個々の短編は謎解きミステリとして「小さな手がかりが意外な真相に結びつく」というシャープさに満ちていて、「ほお」と思うものばかりで、そこに不満はないのさ。ギンちゃん&ムーちゃんが人間ではないという立場から、ちょっと離れた視点で物を見るのも気が利いてるし。ただ、もしも本書に収録されてるのがここまでの6作だけだったら、お勧めマークはつかなかったろう。最終話の【温かな手】にこそ全てがある。むしろここまでの6作は、【温かな手】を書くための壮大な前振りだったとすら思える。
 ギンちゃんは寛子を誘って伊豆に旅行に行く。旅先で妹ムーちゃんと彼女の同居人・北西と落ち合い、一緒に旅行を楽しむ予定だったのだが、そのまえにギンちゃんは会いたい人がいると言い、皆を老人ホームに連れていった──。それまでは単に〈便利〉としか認識してなかったギンちゃんの造形が、ここでまったく別の見方をさせられる。と同時に、なんとも悲しく、切なく、やりきれない思いになる。このスットンキョーな探偵の設定はこのためだったのか、と。これを読ませるためだったのか、と。
 余剰カロリー採ってくれるなんて便利だなあ、あたしもギンちゃん欲しいなあ、でも魂が汚れてるから(滂沱)ダメだよな、なんて暢気に考えながら読んでいたのが、ぜんぶ吹っ飛んだ。けれど、ちゃんと寛子と北西の未来を思いやる優しさがそこにあるので、読後感はとても暖かいのだ。うん、これは途中まで読んでやめちゃダメよ。最後まで読んでね。    (08.1.9)
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ときどき意味もなくずんずん歩く・宮田珠己(幻冬舎文庫)

 うわははは、く、くだらねえええ(嬉)<あ、これ前作の感想でも書いたな。
 世にお笑いエッセイは多々あれど、こと旅行記に限って言えば(タイプは違えど)椎名誠の地位を継ぐのはタマキングこと宮田珠己ではないかしら。アクティブなのに脱力系で、ポジティブなのに情けなくて。椎名誠と比べると、アクティブ度は半分で情けなさ度が倍って感じ? ものすごくユルいと思って読んでると、実は相当なサバイバルをやっていたり、かと思えばホントにユルユルだったり。あたし自身に旅行の趣味がないので、ホントの面白さはもしかしたら分からないのかもしれないけど、ちょっとしたエピソードに臨場感があって、まるで映像を見てるみたいなのさ。
 本書は2003年に出た「52%調子のいい旅」から漫画や迷路を抜き、エッセイだけにして更に書き下ろしを加え、文庫にしたもの。ここで省かれた迷路は「ポチ迷路」の方に収録されてるそうです。今回も旅行記と身辺雑記が合わさった形で、傾向としては「私の旅に何をする。」に同じ。なので感想もそちらを見て戴ければ、書きたいことは概ね書かれてます。以上。
 …………。
 と、それだけで終るのもナンなので。本書で特に気に入ったのは、「ゴージャスなミックスパーマにしましょう」での台湾で見つけた若者向け日本語会話の本の話、「ほどよい豪遊/インド編」での映画『タイタニック』の感想、「私は冒険家ではないのこと」でサラリーマン時代に上司から将来の展望を聞かれたときの顛末。あれ? 旅行に関係ないとこばっかだな。
 ところで、ここまで「ジェットコースターにもほどがある」「私の旅に何をする。」と本書の3冊を読んだのだけれど、そのすべてに共通する話題があるのよ。「ジェットコースターにもほどがある」では翻訳ソフトが生み出す変な日本語、「私の旅に何をする。」では中国で見つけた対日会話の本、そして今回は前述の、台湾で見つけた日本の若者会話を紹介した本。この〈変な日本語〉ネタはデフォルトなのか? マストなのか? 何に一番困るって、これまでの3冊の全てで、この項目があたしにとって「1冊の中で最も笑った章」であるってことなんだよなあ。やっぱり旅行に関係ないとこだよ。せっかく旅行記読んでるのに、箸休めみたいなページが一番気に入るってどうなのあたし。もしかして旅行記に向いてないんじゃ? でもそんな読者をも笑わせるんだから、やっぱタマキングはすごいのだ。   (08.1.14)《詳細情報&注文画面へ》 


ナナフシの恋・黒田研二(講談社ノベルス)

 夏休みのある日、学校の新校舎にメールで呼び出された6人の高校生。メールの発信者は、一学期の終わりに新校舎から転落し、現在も意識不明が続いている真帆だった。本人からメールの筈はない、いったい誰が何のために? 集まった6人は真帆のことを話し出す。自殺未遂とされた真帆の転落、その前後にいったい何があったのか──?
 会話だけで話が進む、一幕物の推理劇といった感じ。「真帆の思い出話」が展開されるうちに事件の真相が見えてくるというパターン。なるほど最後まで読めばかなり伏線が仕込まれていたことが分かる。けれどそれ以上に、ここに本人は登場しない、ただ周囲の人の会話だけで表現される真帆という人物の描き方に注目したい。一人のクラスメートがどんな人物だったのか、本人を登場させることなく、ひとりひとりの証言でひととなりが少しずつ分かって行くという手法って魅力的だもの。
 ただ、主人公でもあり真帆と一番親しかった沙耶以外のメンバーは、ただ真帆のエピソードを紹介するだけになってるのが残念。皆の話を総合して一人の人物を描いていくのではなく、前提となるひとつの個性があって皆の話がそれを補完しているに過ぎないのね。情報を組み合わせた先に別の物が見えて来るという驚きが薄いのは、手法が魅力的なだけにもったいない。
 ただまあ、そこまでは、いい。トリック(というか真の動機というか)も、「そんなのアリかよ」とノケぞりはしたが、伏線もちゃんとあるしね。でも。真相が分かったあとがどうにも不満だぞ。だってさ、そもそもこの犯人がクラスメートを教室に集める必要はどこにもないじゃないか。放っておけば済む話で、わざわざ自分の首を絞めてる。自分が疑われてるわけでもないのに。わざわざあんなメールまで出して(更に細かいことを言うなら、この犯人があんな文面のメールを出したというのが、どうも人物像と一致しない)、いったい犯人の目的は何だったんだ……。うーん、もしかしたらあたしが読み落としてるだけかもしれん(だったらゴメン)が、そこさえ納得させてくれれば。
 あと、どうにも気になったのがエンディング。こんなショッキングな真相が分かった直後だというのに、あまりに展開が爽やかすぎはしまいか。真相そのものは手段にしろ動機にしろけっこう病んでるネタだったのに、ラストで急に青春されたのに戸惑っちゃったよ。しかも青春していい状態じゃないし。なんだか最後で無理矢理いい話に仕立て上げたって感じで、でも本来がぜんぜんいい話じゃないから、なんだかチグハグなのね。病んだまま終っても良かったんじゃないかしら。   (08.1.15)
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キムラ弁護士、ミステリーにケンカを売る・木村晋介(ちくま書房)

 「本の雑誌」に「弁護士的ミステリーの読み方」として連載されてるエッセイが一冊にまとまった。雑誌掲載時から好きなコーナーだったので、これは嬉しい。弁護士の著者が有名なミステリを読んで、弁護士という見地から「これ、おかしいぞ」と思った点を指摘して行くという趣向。たとえば医者である由良三郎氏が医学的見地から有名ミステリのトリックのおかしな点を指摘する「ミステリーを科学したら」の法律版と思えばいいかな。
 この手のエッセイを読むときは「揚げ足取りだ」と思ってはいけない。いや、逆か。書く側が、揚げ足取りだと読者に思わせてはいけない。読者に「娯楽小説なんだから面白ければいいじゃないか、細かいこと言うなよ」と思わせてしまっては、この手のエッセイの面白さは半減する。むしろ嫌味に思えて、書き手の方が株を下げるはめになる。揚げ足取りにならず、プロならではの視点を呈示することで読者を楽しませなくちゃならないわけだ。ここが難しい。そこで本書の巧いところは、最初から〈ミステリーの欠陥を探る〉ことを目的としている、つまり挑戦であると明言している点にある。だから読者は小説の著者と本書の著者の〈対決〉として本書を楽しめるわけだ。
 そしてその法律のプロが観たミステリがどうだったかというと。いやもう興味深いのなんのって。目から鱗がばんばん落ちたよ。重箱の隅なんかじゃない、「うわ、そこを間違ってたらこの話成立しないじゃないかあ」というような指摘があってもうビックリ。でも確かに言われてみればその通り。中でも「うわー、そうか、そうだよなあ」と感心したのが〈『半落ち』にケンカを売る〉の章だ。この作品については直木賞選考会の席上でとある「欠陥」が指摘された(でもあんなのぜんぜん欠陥じゃないけどなっ。だってあの人はそう思い込んでたってだけだもん)が、本書でキムラ弁護士が取り上げた瑕疵はそこじゃない。くだんの選考会での指摘は、キムラ弁護士本人も「話題となった欠陥の有無は本書がフィクションである以上無視していい類のもの」と書いてるし。じゃあ何が指摘されたのかというと──それは本書を読んでくれ。いやあ、どうして『半落ち』を読んだときに気づかなかったかな、これ。
 その他印象に残ったのは、殺人と傷害致死、あるいは過失傷害致死を混同している例が多いということ。それから警察の捜査方法があまりに実際とかけ離れていること。特に後者は〈『99%の誘拐』にケンカを売る〉の章を読んで思わず膝を叩いた。
 その一方で、恋愛小説や家族小説には点が甘いよキムラ弁護士! まあ、法律描写の穴を見つけようにもそういう話じゃないから〈挑戦〉モードは一休みってことになるのだろう。専門分野ではないものの方が虚心坦懐に楽しめるってのは、分からないでもないぞ。なのに、そんなキムラ弁護士をして、ミステリであるにも関わらず「彼女の最高傑作」と言わしめた宮部みゆきは、やっぱりスゴイのだった。    (08.1.20)
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三世相 並木拍子郎種取帳・松井今朝子(角川春樹事務所)

 タイトルは「さんぜそう」と読む。前世、現世、来世の因縁を占う唐土の占術書が日本に渡来、小冊子となって江戸ではやったものなんですって。並木拍子郎種取帳シリーズもこれで3作目で、「一の富」「二枚目」と来たから今度は絶対「三の酉」だと思ったのになあ。自信あったのになあ。ちっ。だったら次は「四文銭」でどうだ!<いや、そんな意地になることでも。
 さて本書は、同心の弟でありながら狂言作者を目指す並木拍子郎が、芝居のネタ探しをしている最中に事件に出くわすという捕物帳のシリーズ。料理茶屋のおきゃん(を通り越して男勝りと言った方がいいか)な娘・おあさとは、なんとなくイイ感じ。しかし同心の兄夫婦には子どもがないため、兄のあとを継ぐか、でなければきっぱり家督は諦めるかの選択を迫られてる次第。戯作者への夢はあれど、家を捨てることにも抵抗があり、さらには自分の出生に対する疑問もあったりして、なかなか決められない。今のままじゃあ、おあさとは身分が違うから結ばれるのは難しい、まさに御宿かわせみ状態。
 前作を読んだとき、捕物風味が薄れて人情物の度合いが強まったと書いたけれど、今回は【雨の鼓】【三世相】の二作がけっこうミステリ色強し。【雨の鼓】はアリバイトリック、【三世相】は操りのパターンだ。──と書いてしまうとネタバレのような気もするが、もともとすぐに見当はつくし、「どのように」という点が主眼なので良いでしょう。いやあ、それにしても【雨の鼓】に出て来た、隣のおばちゃん・おはるがいいわあ。おばちゃんならではの詮索好きと図々しさを〈将軍家のお城にでもずかずかと入り込んで素性調べをしそうな女〉と表現するくだりがサイコー。
 借り物の別項の簪が芝居小屋から消えた【短い春】、人のいい老人が悪い芸者に騙されているのではと周囲が心配する【子ども屋の女】、そして立派な跡取り息子が急に人が変わり、ついには勘当される【旅芝居】も、いずれもミステリ仕立てではあるものの、これらの中核にあるのはちょっと切ない心の襞であったりジレンマであったり。そして全編を通じ、拍子郎自身が抱えている問題が、個々の章での事件に反映されて行く様が醍醐味。どうするんだろうね、拍子郎。
 そうそう、おあさの作る料理も相変わらず美味そうだぞ。特に、蛤の身をすりつぶして山芋と練り合わせ、しんじょ仕立てにしたお椀種なんかもう……じゅる。   (08.1.25)《詳細情報&注文画面へ》 


本棚・ヒヨコ舎(アスペクト)

 その人の本棚の写真と、本と本棚にまつわるインタビュー記事で構成された一冊。紹介されているのは穂村弘、山本幸久、角田光代、長崎訓子、みうらじゅん、喜国雅彦、大森望、中島らも、金原瑞人、宇野亜喜良、吉野朔実、川上未映子、山崎まどか、石田衣良、桜庭一樹。
 この手の本──たとえば
「書斎曼荼羅」とか「書斎の達人」(宇田川悟・河出書房新社)とか「センセイの書斎」(内澤旬子・幻戯書房)とか──ってのは、〈この人はどんな本を持っているか〉ってところを見る人が多いのかな? 自分と同じ本があって嬉しくなったりとか、難しそうな本や洋書が多くて圧倒されたりとか、本業に関係ない趣味の本がたくさんあったりとか、作家さんならその作風とはぜんぜん違う本が並んでて驚いたりとか。確かにそういうのも楽しい。ものすごくきちんとレイアウトしてる人もいれば、どんどん積んでく人もいる。驚いたのは山本幸久さんの「書店のカバーをかけたまま」ってやつ。それで、どこに何があるかちゃんと分かるんですって。
 ただ、あたしの場合、この手の本を見る時の最大の目的はそこじゃない。ただひたすらに〈収納とレイアウトの参考〉だ。だってさ、世に出てるインテリア雑誌や収納の本って、とにもかくにも、何の参考にもならないことが多いんだもの。万単位の本を一部屋に収納する方法を誰か教えてくれ!<心の叫び。で、名だたる蔵書家の人々はどんなふうに収納しているのだろうと、そこが知りたくて読むわけさ。何らかの参考になるのではないか、と。
 けれど本書を読んで気づいたよ。ここに登場した殆どの人が「ここにある本は」というような表現をしている。つまり、本書で撮影され紹介されている本棚は、彼らの膨大な蔵書の中から仕事場や書斎にある本棚に収められたものだけ、なのだ。これ以外の本は倉庫や自宅や他の部屋に、っていう感じなのね。うーん、やっぱそうなっちゃうよなあ。
 いやあ、それにしてもいい。見てるだけで羨ましくなる。石田衣良さんの書斎なんて、どっかのショールームですかと聞きたくなるほどオシャレ(本は決して多くなく、CDだの帽子だのがレイアウトされてる)だし、桜庭一樹さんの本棚には靴やぬいぐるみが置かれててとってもオンナノコって感じだし。こういうのを見ると、書斎の整理をしたくなる。そうだよな、と思ったのは山崎まどかさんの「部屋に入り切らない本は持たないようにしています」「名作は基本的に図書館にあるし、本は常に誰かに読まれているのが幸せだと思うので」という言葉。でも、部屋に入るだけの数に絞り込むのが、またたいへんなんだけどね。   (08.1.26)《詳細情報&注文画面へ》 


こころげそう 男女九人お江戸の恋ものがたり・畠中恵(光文社)

 本書は「小説トリッパー」2008年春季号に書評を寄稿しましたので、こちらでは簡単な記録に留めます。
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 畠中恵のノンシリーズ(今のところ)の時代連作集。江戸は神田を舞台に、男女9人の恋模様を描いた恋愛小説──なのだけれど、もちろんそこは畠中恵なので、この世のモノじゃないものが登場する。今回は幽霊だ。
 登場人物は、下っ引きの宇多・口入屋に奉公している兄貴肌の重松・振売りで野菜を商う自由人の弥太・岡っ引きの娘でおきゃんなお絹・茶屋に務める美人のおまつ・大工の棟梁の娘で恋一筋のお染・表店の箱入り娘で大人しいお品・小間物屋の千之助・於ふじ兄妹の九人。ところが千之助・於ふじ兄妹は神田川で水死体となって発見される。宇多は於ふじのことが好きだったので、二ヶ月経ってもまだふさいでいる。物語はそこから始まる。
 下っ引きという仕事柄もあって、物語は捕物帳形式。そこにこの9人(生きてるのは7人)の恋模様が絡んでくるわけだが、そのブレンド具合が絶妙なのよ。そもそも9人(もしくは7人)なんだから、どう組み合わせても一人余るようになってるし、そこに幽霊として死んだ人間が舞い戻ってきたりするもんだから、こりゃもう男女七人夏物語か、はたまたハチクロか、という感じ。みんな町人だから、時代小説の恋愛ものによくある「身分違い」ということもない、つまるところとても現代的な恋愛模様なのね。そこに、思いっきり江戸風味な捕物帳(当時の社会的要素が上手に取り込まれてて、謎解きもなかなかのもの!)が組み合わさって、身近なのに江戸の息吹に満ちてる。これはいいぞ。特に時代小説に慣れない人には、入り口として最適なんじゃないかしら。
 於ふじが生きていたときには、思いを告げることが出来なかった宇多。幽霊として戻ってきてくれた嬉しさと、でも幽霊なんだという寂しさが、なんとも胸を打つ。ラスト間際の宇多のセリフはとても悲しくて、けれどとても清々しくて、絶品です。   (08.1.30)
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悶絶スパイラル・三浦しをん(太田出版)

 ブレイク前からネットで連載されていた三浦しをんのエッセイ集第──何弾だ? 8弾か? とまれ、売れなかった頃だろうが直木賞をとった後だろうがテイストが全然変わらないのがすごいよ。っていうか、この本に収録されてる分の終わりの方で直木賞をとったはずで、なのにその話がまったく出て来ない! いっそ気持ちいい。浅田次郎の連載エッセイ「勇気凛々ルリの色」が、直木賞をとったときはその本がまるまる直木賞受賞おめでとう特集みたいになってたのに比べると、こうまで違うかと笑っちまったい。
 下世話なのを承知で遡ってみると、本書第四章の「そろそろ血管が切れるころ」と「さぼっていた間にしたこと」の間に、直木賞の受賞騒ぎがあった筈だ。でもってこのエッセイが連載されてたボイルドエッグスのサイトには、その間に「はじめての体験」と題された回があった。が、本書ではその回はトバされている。
 うー、その回に何が書いてあったか、覚えてないのが悔しいよお。いや、ウェブで読んだときに「あれ? もうちょっと直木賞受賞について書いてるかと思ったのに」と拍子抜けした覚えがあるから、こちらの野次馬根性を満たしてくれるほどのことは書いてなかったんだと思う。でもちょこっと触れてたのよね、確か。でもってその回を本には収録しないということは──うわあ、完全に直木賞ネタを避けてるってことじゃないか。ここに何か、三浦しをんのエッセイとはこういうものです、という意思を見てとることはできないか。変わらない三浦しをんを感じ取ることはできないか。いや、考え過ぎかもしれないけどね。なんと言っても、第一話がいきなり下痢の話である。何が直木賞だってな感じになるわなあ、そりゃ。
 今回一番笑ったのは「おそるべき計測器」。デジカメの話である。SDカード1枚で何枚写真が撮れるかという質問に対し「そのときによる」と言われた話。128という数字を128枚撮れると思ってたってのもすごいが、「昔はフィルムに24って書いてあったら24枚撮れる。それでだいたい表示より1〜2枚多く撮れたりして、ラッキー」というくだりを読んで懐かしさにのたうち回ったよ。つまりデジカメの場合、写真の対象がどれだけ容量を喰うかという話なのだが、「売れっ子のアイドルを撮ると30減るのに、三浦さんだと3しか減らない」なんて例を考えるくだりが、もう……。まさに悶絶。そんな中、「唄ってよイカリちゃん、ダメ人間のテーマを!」が胸に刺さる。電車の中でヒステリックに同級生を糾弾する小学生の女の子。見ているだけで、読んでいるだけで切なくなる。ウンコだの何だのの中にこういう話がすっと入って来ると、ホントに刺さるよなあ。    (08.1.31)《詳細情報&注文画面へ》 


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