そして7月18日、手術当日。
前もって渡された「手術を受けられる患者さんへ」という注意書きには、「女性の方は化粧・マニキュアなどはしないで来て下さい」「衣服は、着たり脱いだりの楽なもので来て下さい」という項目があったので、ストンとしたワンピースにスッピンという、風呂帰りのオバチャンのような格好で病院に入る。
手術の時刻は、外来の患者さんを受け付けない時間帯なので、クリニックに患者はあたしひとり。病院に入るなり、看護婦さんが玄関の鍵を閉めて、にっこり笑う。女の子を騙してホテルに連れ込んだときのようだ。「外来時間までは閉めておくんですよ」──おおおお、密室!<違います。この中でたとえ何があっても、あたしの悲鳴は外部には漏れないのかッ!<ホクロを取るだけです。
「じゃあ、手術室に入って下さい」
う〜ん、自分で歩いて手術室に入るのか。手術室と言えば、やっぱストレッチャに横たわり、そばに家族がついていて「頑張ってね」と声をかけ、「ご家族はここまでですから」と扉がガチャっと閉まるみたいな、そういうのを想像していたのだが。<だからホクロを取るだけなんだってば。
手術室の中央には、黒いベッド。ただ、頭・胴・腰・足などの関節の位置でベッドが途切れており、患部によって如何様にでも形を変えられるタイプのもののようだ。
「じゃ、ベッドの上に寝て下さいな」
仰向けに寝る。おおおお、テレビでよく見る、手術室のライトだああ! 大きな円の中に、小さな丸いライトがいっぱい入ってるヤツ。ホクロを取るだけなのに、なんかすごくホンモノっぽいぞ。
まず、看護婦さんが血圧を測る。そこへT中先生が入ってきたので、「この十日間で、いろんな人から話聞いて、なんだか妙な知識がいっぱい入っちゃいましたよお。7ミリ以下は大丈夫とか、必要十分条件とか。妙に日にちが開いたから、どんどん妄想が膨れちゃって」と訴えた。ら。
「あら、あたし、心配ないって言ってなかったっけ」
「えええっ! いや、日本人にはレアケースだとしか」
「あはは、ごめんごめん、大丈夫だから」
「で、でも、検査に回すって」
「そりゃ、万が一の可能性を考えれば検査しといた方が安心でしょ」
「えええ〜〜〜」
「だいたいねえ、マズいと思ったらこんなとこで手術しないで、すぐに大きな病院を紹介しますって」
「えええ〜〜〜」
「そうねえ、見た感じで五分五分の可能性だったら、迷わず大病院に行くように言うわね」
「えええ〜〜〜」
「ま、結論は、切って皮膚の中を見てからにしましょ」
あの膨れ上がった妄想の行き場は。これじゃ単なるホクロ取りじゃないか。<だから最初からそうだって。
うつ伏せになって、先生が足の裏を消毒する。くくく、くすぐったい。なんせ足の裏だ。この状態でくすぐられたら、逃げようがない。あたしからは見えないので、何をやってるのか逐一説明してくれるT中先生である。
「じゃあ、まず、患部を計測して写真を撮ります。ホクロは、長径6ミリ、短径3ミリ。
この周囲の組織を大きめに──そうねえ、長径15ミリ、短径6ミリに渡って切除します」
続いてカメラのシャッターが切られる音が。ピースサインでもしたいところだが、足の裏しか撮って貰えないので(当たり前だ)、足の指で、グー・チョキ・パーをしてみる。すかさず「大矢さん、遊ばないで」と叱られた。す、すみません。
続いて、何やら紙のようなものが足の裏を覆った感触。どうやら、ホクロの周囲だけが目出し帽のように穴が開いてるらしい。
「じゃ、麻酔の注射をしますね」
「うっ、麻酔の注射が痛いんですよね……」
「そうねえ、これだけは仕方ないわねえ。でも麻酔無しだと、もっと痛いから」
「はい……我慢します」
「3秒だけ、3秒だけだから、ごめんね、我慢してね」
「はいっ」
「じゃ、いきます」(ぷすっ)
「いっ、痛ああああああああああああ!」
「3秒だけ我慢してっ! い〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ち、
にぃ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜、
さぁ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜」
どこが3秒じゃあっ!
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ん、ハイ、終わった!」
「ぜえぜえ」
「ハイ、もう一回」(ぷすっ)
「はうあっ!」
「でも今度は、さっきより痛くないでしょ。ちょっとピリピリするくらいで」
「はあはあ……」
「ハイ、終わり。ここ、冷たいですか?(踵の近くをアルコールで拭いている)」
「あ、はい、冷たいです」
「じゃあ、ここは?」
「触ってるのは分かるけど、冷たくはないですね」
「オッケー、効いてるわね、じゃあ始めましょう」
「え、でも、触ってる感覚はありますよ?」
「触覚と痛覚は場所が違うからね、触覚は残るけど痛覚は消えてるのよ」
へえ、そうなんだあ……。なんかすごくないか、それって。しかし百聞は一見にしかず(いや、見えてないんだけど)である。このあとあたしは、《触覚は残るけど痛覚は消える》という状態を、身を持って体験するのであった。
「じゃあ、切ります」という先生の声と共に、先生の手がホクロの近くを押さえているのを感じる。でも、切られている感覚は全くないのだ。先生の手が足の裏で動いているのは分かるのだが、メスが入っているのは全く感じない。もちろん痛みもない。
そして、「はい、切除しましたから、縫合しますね」と先生が言ったその瞬間。
糸が通るのが分かるう!
うわ、わ、なんだこの感覚。すごいすごい、皮膚の中を、糸が通っていくのがハッキリ分かるぞ。どこからか足の中に入って来た糸が、つぅーーーっと皮膚の内側を通過していくのだ。時折先生が「つんつん」と引っ張っていることすら分かる。うわあ、すごいすごい。こんな感覚が味わえるなんて! もう、大興奮である。《触覚は残るけど痛覚は消える》ってのは、こういうことなのか! 足の裏にホクロのある全国の皆さん、この感覚を経験するだけでも、ホクロを取る価値はありますよ!
後日、骨折で2度の手術を経験している自転車友人S芝さんにこの話をすると、「あ、そうなんスよね、俺の手術のときは半身麻酔だったから、足の中でボルトが緩められるのが分かりましたもん」と言っていた。……す、すごい。その体験には適わない。
絆創膏とガーゼと包帯で足をぐるぐる巻きにされて、手術は終了。切除したホクロと周辺組織を見せて貰った。妙に白い皮膚と、茶色いホクロ部分。皮膚が白目に、ホクロが黒目に見えて、小さな眼球のようだ。厚みも結構ある──グロい。おまけに手術前日までに牧野修のホラーを2冊読んでたものだから、「このホクロが保存液の中で急に増殖して動き出したりしてほんでもって電波が来て」などと、あらぬ想像をしてしまうくらいグロい。
「5針縫いました。検査には出すけど、でもまず、90%以上の確率で問題無しよ」
あああ、よかったあ。ありがとうございますありがとうございます。じゃあ明日、また伺いますね、と言ってベッドから降りた瞬間。左足が突っ張って、そのまま床に転げ落ちた。
「幅6ミリくらいを切り取ったところを、その前後の皮膚を引っ張って来て縫合してるから、
しばらくは突っ張るからね。気をつけて下さいね。」
先に言えよッ!
そんなこんなで、ホクロ取りドタバタ騒動も一段落。今日(7/22)で術後4日になるけれど、びっこを引きながら(って差別用語だっけ? 自分のことだからいいよね)なら、どうにか歩けるようになりました。今では1日2回の消毒も、自分でやるのさ。明日からは、びっこ引きつつもバイトに復帰の予定。
抜糸までは2週間くらいかかるそうなので(足の裏は常時刺激されるから、治りが遅いんだって)、抜糸前と抜糸後に写真を撮ってやろうと画策中。次の黒田の新刊プレゼントの時は、メッセージカードの代わりにこの写真をつけましょうか。いりませんかそうですか。