あたしが甘かったんです。ええ、あたしが甘かったんです。
この世には神も仏もないのか。
まったくもって油断していたとしか言いようがない。新学期と言えば9月1日と相場は決まっている。まさか日曜日で学校が休みだなんて、思いもしなかったのだ。だから、電話が鳴ったときも、ナンバーディスプレイをまったく確認せずに気軽に出てしまったのである。受話器を取ってコンマ5秒で、J子からだと気づいた時の衝撃と言ったら。
「オーーッス! 久しぶ」ガチャッ!
……う、うわッ! 思わず切ってしまったあああ。脊髄反射だ。脳味噌は何も指令を出していないのに、この右手が、この右手があああ! と、間髪入れずに再び鳴り出す電話。あううう。
「……はい、もしもし?」
「てめえ何切ってんだよブッ殺スぞコラァ!」
「ああああ、あれえ、その声はJ子? ひひひひさしぶりだねえ」
「何バッくれてんだヨ、オマエ今電話切っただろッ」
「ええ〜〜〜? ななななんのことぉ? 間違い電話でもしたんじゃないのぉ?」
「……そっかぁ?」
「そうそう、そうだって! J子からの電話を切ったりするわけないじゃん!」
アカデミー賞ものの演技でその場を取り繕う。今のあたしをNHKのプロデューサーが見てたら、きっと来年の大河ドラマの出演依頼が来たに違いないほどの熱演である。
「で、今日はまたどしたの」
「いやあ、M瑠(彼女の次女・夜露死苦と同程度の当て字)の宿題でヨォ」
「え〜〜〜〜、またあ?」
「あん?」
「……なんでもありません」
「宿題帳が残ってんだよぉ」
「あ、宿題帳。今年は自由研究とか工作とかじゃないのね。じゃあまだ楽じゃないの」
「自由研究? そんなもん、オマエに頼んだことがあったか?」
思わず電話口で立ち眩みを起こす。なんなんだ、そのすさまじい物忘れは。若い頃のシンナーが今頃になって効いてきたのか。子供に宿題させる前に、何か他にやらなくちゃならいことがあるんじゃないのかJ子。
「ちょっと何言ってんのよ、一昨年のイモ判も、去年の瓶ハーモニカもあたしが」
「どっちもM瑠がちゃんと自分でやったぞ」
「い、いや、そりゃ実作はそうだろうけど、でもあの」
「あん?」
「……なんでもありません」
「宿題帳でヨォ、まだ埋まってないページがあって……えっとぉ」(パラパラ)
「例えばどんなの?」
「例えば……おお、これだ、《夏休みに、どんなお手伝いをしましたか?》」
「いや、これじゃなくて……《身近な自然を観察してみよう》」
「いや、これもいいんだ。このためにタマちゃん見に行ったから」(注・この夏は多摩川のアザラシが話題でした)
「あ、見に行ったんだあ。見えた?」
「人ばっか多くてヨォ。でも、ちょっとだけ見えた」
「ホントぉ。よかったじゃん。可愛かった?」
「ああ、矢は見えなかったけどな」
……は? 何? 何と勘違いしてるの?
「でも、とりあえずM瑠の絵には矢も書かせといた」
えええっ! いや、それはやめておいた方が……。でもここでそんなことを言うと、こっちにお鉢が回ってきそうな気がしたので、「その絵、提出する前にパパにも見せた方がいいよ」とだけ言っておくことに。ダンナさん、驚くだろうなあ。
「ところでヨォ、あのタマちゃんって、何て言う動物なんだ?」
「ええっ、知らないで観察してたのぉ?」
「っつ〜かヨォ、あのあたり、似たような動物いっぱいいるだろ。水族館でボール投げるような」
「ああ、アシカとかオットセイとかね。トドやセイウチも似てるしね」
「そうそう、なんかそんなの」
「タマちゃんはね、アザラシだよ。ニュースではアゴヒゲアザラシって言ってた」
「へえ……じゃあこれから、足が生えるのかぁ」
「……J子、話を宿題帳に戻そう」
「おお……あ、これだこれだ、《本を10冊読もう》」
「……は? 読めばいいんじゃん?」
「バッカじゃねえのかオマエ。1日で10冊も読めるワケねえだろ」
「って、1冊も読んでないのぉ!」
「本なんか読んだらブスになる」
「……あんた、ケンカ売ってんの?」
「あん?」
「……なんでもありません」
「読んだ本の名前だけ、書かなきゃなんねえんだよ、なんか10冊あげてくれ」
「じゃあ無難なとこで、とりあえず、ハリー・ポッターを3冊と……」
「バッカじゃねえのかオマエ」
「え?」
「そんな、みんなが読んでるような本書いて、中身訊かれたらどうすんだよッ」
「ぐ……じゃあ、誰も知らないようなマイナーな方がいいのね?」
「バカか。誰も知らないような本書いて、どんな話か訊かれたらどうすんだよッ」
「う〜ん、あ、そうだJ子、それなら伝記がいいよ」
「デンキ?」
「去年の冬休みの宿題でさ、歴史上の人物を3人ってのがあったでしょ」(「冬休み編」参照)
「ああ、あったあった」
「あんな感じで、歴史上の有名人の伝記を10冊読んだってことにすれば?」
「ふんふん」
「何やった人かだけ簡単に分かってれば、中身訊かれてもテキト〜に言えるでしょ」
「あー、なるほど」
「例えば、ヘレン・ケラーなら、三重苦に負けずに頑張った、ってくらい知ってれば充分よ」
「よし、それでいこう。冬休みに聞いたのって、あと二人は誰だっけ?」
「キュリー夫人とナイチンゲール。何やった人か説明したの、覚えてる?」
「おおお、キュリー夫人ってアレだろ。温泉、掘ったんだろ」
……多分、ラジウム発見を変な方向に発展させて覚えちゃったんだろうなあ。
「よし、あと7人、メモとるから片っ端から言ってくれ」
「ちょっと待ってよ、あたしが挙げるより、M瑠ちゃんが知ってる人の方がいいって」
「え〜、M瑠にゃそんな知り合いいねえよ」
「あたしだってキュリー夫人と知り合いってわけじゃないんですけど」
「ま、ちょっと聞いてみるワ。昔の人で知ってるヤツいないかってことだな」
しばしの静寂。あそこは親より娘の方がしっかりしてるから(その割には毎年宿題やってないけど)、まぁこれで大丈夫だろう。我ながら素晴らしいアイディアに満足して待つ。
「聞いてきたぞ。えーっと、イチイサヤカとナカザワユウコ」
それは昔のモー娘。のメンバーだッ! そりゃ確かに小学生にとっては《昔の人》かもしれないけどさあ。
「却下! じゃあJ子の知ってる人にしよう。誰か好きな歴史上の人物、いる?」
「大山倍達」
しまった、こいつが格闘技好きなのを忘れてた……。まぁ、大山倍達なら伝記も何冊も出てるし、親が直接教えられるんだから、いっか……いいのかなあ、小学生の女の子の夏休みの読書が大山倍達って。牛と闘ってる場合じゃないような気も。
「あと6人。任せた」
「任されても……まあいいか、あとは定番で行こう」
「よし、メモるぞ。ちゃんと漢字も言えよ」
「はいはい。野口英世、野口五郎の野口、英語の英、世界の世。手のケガにも負けず、病気の研究」
「ほいほい」
「豊臣秀吉。豊後の豊、大臣の臣、ノダのシュウコちゃんの秀、吉田さんの吉」
「ダイジンのジン、って、巨人の巨みたいなヤツ?」
「そうそう。で、農民から出世して、天下統一を果たした、と」
「天下統一かあ。そんな旗作って、改造スカイラインから振ってたよなあ」
「そんな思い出話はいいからッ! 芸術方面も欲しいね。松尾芭蕉は?」
「おお、芭蕉くらいは知ってるぞ。カエルとかセミとかの俳句作ったヤツだろ?」
「うん、ものすごく大雑把だけど、合ってる。それから……エジソン。電球や蓄音機を発明」
「名前の漢字は?」
「外人なのッ! 次っ! ライト兄弟。飛行機を作った」
「ほいほい」
「ファーブル。昆虫学者。有名なのはスカラベ──糞転がしの話かな」
「虫マニア? あ、もしかして芭蕉もそうだったのかな」
小学生向きの伝記全集にありそうな人物を片っ端から10人挙げたけど、今にして思えば、めちゃくちゃなラインナップである。何より、キュリー夫人と野口英世の間に大山倍達だもんなあ。
とまれ、電話を切ったときには1時間近くが経過していたのであった。頼むよJ子、来年はもっと早くに言って来てくれえ。ってゆ〜か、自分でやってくれえ。こんな《夏の終わりの風物詩》、イヤだいっ。