ドラマ「永遠の仔」を見てポロポロ泣く。このあたりは原作を読んでる時も目頭が熱くなったシーンだと思い出す。今期のドラマは(大河ドラマを除くと)「永遠の仔」と「QUIZ」を見ているけれど、ちょっと最近「QUIZ」を見るのが辛くなってる反動で、その分「永遠の仔」に感動してしまったのかもしれない。
最近続いた「殺してみたかったから殺した」だのインターネットで犯罪予告だの「くいずです」の予告状だの引きこもりの犯罪だの──そういう事件が現実の世界で多発してしまうと、「QUIZ」はフィクションだと重々承知していても尚、もうこの手の話は見たくない聞きたくないと感じてしまうのだ。
決してテレビドラマのせいで(或いは小説・ゲーム・インターネットのせいで)犯罪が起こったなんて考えてはいない。寧ろ、こんな事件が起こるとその類のメディアがバッシングを受けるのを苦々しく思っている。
あたしが嫌悪感を抱いているのは、「自分が楽しんでいたフィクションが現実になると、かくも悲惨な状況になる」という事実をまざまざと見せつけられた事にある。他人の不幸をインターネット上で茶化すシーンや、犯罪をゲームとして楽しむ犯人像など……勿論「QUIZ」のスタッフのせいではないが、あまりに最近の事件にマッチして、一言で言えば、辟易してしまったのだ。
無論、このような感情はある意味間違っている。フィクションはあくまでもフィクションであり、小説はあくまでも絵空事であり、娯楽であり、──そして芸術である。フィクションを現実にあてはめて、それでどうのこうのと言うのは的外れだ。分かっている。ええ、分かってますとも。どんな悲惨な猟奇殺人を描いていても、面白い小説は面白い。そして、それが面白いのは小説だからだ。現実ではないからだ。現実になってしまうと、面白くも何ともない。辛いだけだ。だから「QUIZ」を見るのが辛いのである。
しかし、なんだかんだ言ったところで、あたしは何処か根っ子の部分でミステリが好きである。だからこそ、今は、元気の出るミステリが読みたい。どんなに猟奇的でも、どんなに悲惨でも、どんなにアブナイ犯人でも、最後に明かりが見えるミステリが読みたい。被害者が救われるミステリが読みたい。加害者が過ちに気付くミステリが読みたい。もしも最近の犯罪が小説やドラマの模倣ならば、更に現実に打ち勝つ小説やドラマも多く存在する筈である。
知性とは、強さであると信じる。想像力とは、優しさであると信じる。
そんな知性と想像力を持った多くの作家が、その翼を最大限に広げ、日夜骨身を削る努力をして、我々の手に小説を届けてくれている。そしてこの世に初めて《小説》というものが登場して以来、そこに描かれている様々な事に、感動し、勇気づけられ、教えられ、諭され、時には反発し、時には倣って、貪るようにページをめくった多くの読者がいる。
読み誤ってはいけない。小説にしろドラマにしろ、作る側と同様に受け取る側にも能力が必要だ。伝えられていることをしっかりと把握し、咀嚼する能力が必要なのである。そこに書かれている文字を、心を通さずに直接脳味噌に刻んでしまってはいけない。頭で理解するのと、心で理解するのは、別である。
書評サイトの存在が、その標をほんの少しでも担える事を願ってやまない。