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会津士魂(全13巻)・早乙女貢(集英社文庫)

 曾祖父が戊辰戦争に従軍したという、会津の血を持つ筆者の畢生のライフワーク。『賊軍』の汚名を着せられた会津の悲劇を、膨大な資料と比類なき情熱で描いた、吉川英治文学賞受賞作である。
 明治維新を舞台にした歴史小説は多い。しかしその大半が、薩長土肥を主役に据えた物語である。勤王の志士という名前を与えられ、歴史を動かしたヒーロー達、という描き方をされる。しかし、果たして本当にそうだったのだろうか。『賊軍』とされた会津は、本当に『朝敵』だったのだろうか? 
 そもそも開国したのは幕府である。しかし、薩長は攘夷を叫んでテロを起こした。その一方で偽勅を発行したり、イギリスから武器を買い、政権を握ったあとは「攘夷」を叫んだことなど忘れたかのように、外国と交流を始める。尊皇攘夷とは正反対のことをしているのだ。彼らは戦争に勝った。その勝者が歴史を作り、後世に伝え、それを我々は学ばされてきたのである。歴史は勝者が作る、ということをまざまざと見せつけられる大河小説である。明治維新とは稀代の革命では決してなく、流血のクーデターだったのではないか、と思えてならない。
 しかし、だ。会津ファンを自認するあたしでも、薩長や幕府に対する筆者の悪口雑言のすさまじさには、時々ムカッ腹が立った。たしかに会津側から見れば当然の論理で、至極納得もできるのだけれど、内容よりも表現の問題だなぁ。この書き方ではかえって読者の反感を買って、結局損をするんじゃないかとすら思える。
 それでもお薦めマークをつけたのは、ひとえに、会津の歴史を広く知って欲しいからである。勤王の志士を讃える歴史小説だけでは片手落ちだ。会津が間違っていたとは、あたしは決して思えない。歴史は常に両面から見ねばならないのだ。たとえ筆者がどれだけ薩長の人々を中傷しても、それ以上に彼らを褒め称えた小説がたくさんあるのだから。引き分けにすらならないだろう。あたしは、戊辰戦争に賊軍はいなかったと思っている。
 そういうことを念頭に置いた上で読んで欲しい。会津の側にたった小説って、ホントに少ないんだから。日本史を紐解く上で、読まねばならない一冊である。いや、13冊だ。え? 「続・会津士魂」も執筆中? それも、全七巻ですって?! ひえ〜っ。

 会津士魂1.会津藩 京へ

 幕末、会津藩主松平容保(かたもり)は、京都守護職を拝命し藩士を率いて上洛した。おりしも京では尊皇攘夷の名を借りたテロの嵐が吹き荒れていた。上洛藩士の中には鮎川兵馬もいたが、彼は京で父の仇・会津を脱藩した三田村新蔵を探す。
 どうして容保は西郷頼母(たのも)の意見をきかなかったのか、と歯がみしてしまう。京都守護職なんか意地でも断ればよかったのだ。てなことを考えるのは、当然、事の顛末を知ってるからこそである。歴史にたらればはないとは言え、ううっ。
 さて、二千もの兵を連れて上洛したってのは知ってたんだけど、宿を決めるのに江戸で足止めを喰らったというのは初めて知った。考えてみれば、御所に近く本陣も張れるような場所で二千人入れるところを探すわけだから、たいへんなのは当たり前である。そういう、いわば裏話的な歴史の一面をきちんと描いてくれてるのが嬉しい。
 とまれ、いよいよ大河ドラマの幕開けである。 (00.6.1)   

 会津士魂2.京都騒乱

 新撰組が登場。壬生浪と言われた新撰組は京都守護職の前衛となり、尊攘過激派と相対する。池田屋事件、そして蛤御門の変を経て、京はますますきな臭くなってゆく。一方、鮎川兵馬の探す仇敵・三田村新蔵は、身分をたばかり尊攘過激派の一員となっていた。
 そうか、考えてみたら「新撰組」ってのがあったな。幕府側で唯一ヒーロー視されている面々である。だけどそのヒーロー観も、クーデターを押さえようとしたという政治的見地からではなく、《最後の剣客》的な扱いで描かれることが多いよなあ。そういう意味でも、これは貴重だ。
 さて、ここまで来ると容保の真面目さにイライラして来る。ああもう、斬ればいいじゃん斬れば、という気になってくるのだな。そこには当然、慶喜の優柔不断さと老中たちの無知に対する怒りもあるわけで。ここで気になるのがやはり薩摩の立場である。蛤御門の時は完全に会津側に立って長州を攻め、七卿落ちにも貢献したというのに、結局長州が息を吹き返したのも薩摩のおかげなんだよなぁ。こうしてみると、会津の人間にとって坂本龍馬憎しというのは当たり前かもしれない。
 しかし、何がすごいってこの巻の巻末エッセイがすごい。会津松平家十三代当主・松平保定(もりさだ)氏だぞ。この方は、司馬遼太郎が
「王城の護衛者」を書いた時に、秩父宮勢津子様に言われて司馬氏にお礼の電話をしたという、あの御方である(秩父宮勢津子様も会津松平家の出であらせられる)。思わず「ははーっ」と平伏してしまったのだった。 (00.6.2)   

 会津士魂3.鳥羽伏見の戦い

 鮎川兵馬は一時帰郷し、ほのかな恋をする。その頃、京都では薩長同盟がなり、孝明天皇は崩御。幼い明治帝が立った。慶喜は大政を奉還し戦火を避けようとしたが、薩長の反徳川勢力は鎮まらない。ついに鳥羽・伏見の戦いの火蓋が切って落とされ、薩長は錦旗を作って会津を朝敵にしたてあげようとする。
 筆者の「薩長憎し」が最も如実に表れた巻と言えよう。維新のヒーロー坂本龍馬も、筆者はケチョンケチョンに貶しまくる。龍馬を切ったのは会津藩士の佐々木忠三郎であるとし、龍馬は切られて当然だと吠える。孝明天皇は岩倉具視に暗殺されたのだと断定し、薩長が勤王とは名ばかりと斬って捨てる。翻って会津・桑名を褒めること褒めること(笑)。会津ファンのあたしをして「おいおい、そこまで言ってもいいのか」と思わしめるような筆致だ。うーん、薩長ファンは読まない方がいいかも。
 感情的な贔屓にはちょっと辟易しちゃうんだけども、しかし、こういう見方に一理も二理もあるのは事実である。なんせ、これまで読者は明治政府が喧伝した歴史を読まされてきたわけだから、自分たちを悪くいう筈がないのだ。歴史をひとつの視点からしか見ないのは危険である。 (00.6.2)   

 会津士魂4.慶喜脱出

 鳥羽伏見で藩士たちが必死に戦っている隙に、あろうことか総大将の慶喜が大阪城を脱出。会津・桑名の藩主を無理に従えて江戸へ戻る。主君に逃げられた敗残の兵は怒りに震えるが、江戸に戻った容保を待っていたのは、信じがたい慶喜の裏切りだった。
 NHKの大河ドラマ「徳川慶喜」では、無益な戦いを強制的に止める手段として、涙を呑んで大阪脱出を決意したように描かれていたけれど、これは確かに早乙女史観の方が説得力があるぞ。慶喜の変節については有名だしね。これが容保にとって最大の不幸だったんだよなぁ。何よりも、ここで神保修理を失ってるのが痛い。これ以上の無駄死にはないぞ。無駄死にどころか、会津はあたら人材を失ったことになるというのに。それもこれも、今だからこそ言えるんだけどさ。せめて最後に雪子に合わせてやれよぉ(;_;)。
 それにしても、おお、ついに筆者の怒りの筆先は、皇女和宮にまで及んだか。和宮と徳川家に関しては数々の逸話を読んだが、いわゆる《いい話》は全部切り捨てだ(笑)。巷間伝えられる話と真反対のことを書いてるぞ。ま、筆者のスタンスからして仕方ないのかもしれないけど、これはちょっと……。何より、和宮と天障院を指して『寡婦特有の陰湿な刃』だの『女の意地悪』だのという表現には、会津ファンとか何とかを通り越して、女として憤りを感じましたことよ。これは和宮云々ではなく、女性全体に対しての侮蔑じゃないかよおっ。ここだけは我慢できんぞ。 (00.6.2)   

 会津士魂5.江戸開城

 ついに江戸城は明け渡され、慶喜は水戸へ移る。しかし、会津藩士を含む幕軍の残党は上野の山へこもり、彰義隊として西軍と壮絶な戦いを繰り広げた。その中には、鮎川兵馬もいた──。
 容保や新撰組はちょっとお休み。この巻を読むと、武士による戦争がいかに一般市民を圧迫したかというのがよく分かる。これは戊辰戦争に限った話ではなく、古くは戦国武将から、最近では第二次世界大戦まで、すべてそうだよな。まだ戦国時代の「刈り入れの時期の戦は避ける」てな習慣の方が(兵が足りないからという理由だったにしろ)好感を持つぞ。彰義隊結成の際、無理矢理本願寺を開けさせたのなんか、ものすごく無礼な話だ。同時に、そういう戦火の中にあって、大阪・京都・江戸のそれぞれの民衆の態度がどうだったかというのも興味深い。あきらかに対応が違うのだ。これは現代にも通じるかもしれない。
 徳川の《お膝下》だった江戸での戦火。江戸市中を焼いても上野で西軍を食い止めるとする一派と、江戸は焼かずに東照宮のある日光で臣君家康の御利益を貰って戦おうとする一派(いずれも彰義隊の中での話)の論争が印象深い。 (00.6.2)   

 会津士魂6.炎の彰義隊

 松平容保は《朝敵》の汚名を着せられたまま、会津へ戻った。藩士達も陸路や海路でそれに従う。上野の山で彰義隊として戦った鮎川兵馬も、西軍の残党狩りを逃れて江戸を離れた。一方、会津を伐つために薩長の大総督府が仙台に入る──。
 会津は勿論、奥羽各国にとっては憎んでも憎みきれない世羅修蔵の登場である。こいつさえいなければ、あの戊辰の悲劇は起こらなかったと言ってもいいのだから。せっかく容保が謝罪嘆願を出して謹慎しているというのに、なーにが「奥羽皆敵」だ、なーにが「奥羽弱藩懼るるに足らず」だ。ああもう頭に来るッ! 正直、5巻までの中で薩長をケチョンケチョンに言ってるのを読むと「いや、悪いヤツばかりではないのでは」と思わず庇いたくもなったりしたのだが、この世羅がいるってだけで「やっぱ薩長って酷い」と思わしむるに足るほどである。
 その世羅が率いる大総督府に城下を蹂躙された仙台藩には、次第に会津を助けようという空気が充満する。戦う気はないのだから、互いに空砲を撃って戦ってる振りをしましょう、という提案なんか泣かせるではないか。そこからはしばし、仙台藩が主役である。さすがは伊達政宗以来の雄藩だ。あの手この手を労して、何とか戦火を未然に防ごうとする。無論、仙台藩の中にも薩長におもねる輩は出てきて、何だか現代の社会でも往々にしてありそうな、保身と主張のぶつかりあいが興味深い。 (00.6.8)   

 会津士魂7.会津を救え

 会津の恭順降伏の嘆願は総督府に握りつぶされた。総督府では好戦派が幅をきかせ、仙台藩に会津討伐の命を下す。そして閏四月、理不尽な先頭の火蓋が切られたが、仙台藩や米沢藩などの大藩が中心となって、奥羽各藩が会津救済の気運が高まる。そして世羅許すまじの声のもとに──。
 さあ、俄然面白くなってきたぞ!(いや、実話なんだから面白いなんて言っては申し訳ないが。)いよいよ奥羽列藩同盟である。くーっ、武士だなぁ仙台米沢。「会津は何も悪いことをしていない」からと言って、薩長に逆らえば賊軍になるのである。保身を考えても当然のところだ。それなのに、奥羽一丸となって戦おうという……感動。これって何なんだろう。やはり厳しい自然環境の中で生き抜いて来た同じ北国っていう仲間意識なのかなあ。あたしは九州出身だけど、正直九州の中でこういう気概が出てくるとは思えないのよね。九州にも鍋島藩みたいな《武士道》を標榜する藩もあるにはあるのだけれど。
 奥羽列藩同盟と並ぶ本編の白眉は、何と言っても世羅修蔵殺害だ。しかし遅きに失した感は否めない。あと2〜3ヶ月早く世羅を討っていれば、もしかしたら……と思えてならないのだ。 (00.6.8)   

 会津士魂8.風雲北へ

 話はちょっと関東の戦火へと戻る。彰義隊が活躍する直前、新撰組の土方歳三や会津藩士・秋月登之助らが中心となって、旧幕府軍が兵を挙げた。戦火は宇都宮から今市、白河へと広がっていく。一方、仙台藩では細田十太夫が腕に覚えのある命知らずの博徒を集めて、薩長に奇襲をしかけていた。これを、その黒装束から人々は「からす組」と呼んだ──。
 「からす組」だけ独立させた読み物は何かないのか!と思うくらいエキサイティングだ。これって「真田十勇士」みたいな講談や芝居になっても当然だと思うんだけど、そこはやはり、「反政府軍」だから黙殺されてたのかなあ。昭和の中頃まで「鞍馬天狗」に人気があったくらいだもんね(「鞍馬天狗」は薩長側のヒーローなのだ)。
 しかし、この巻は何と言っても《巻末エッセイ》をお読み頂きたい。女優の村松英子氏が「会津の女性」をテーマに書かれているのだが、これが実に涙を誘う。西郷頼母一家の自刃の話や、中野竹子・優子姉妹の話、娘子軍に入って戦死した神保修理の妻・雪子の話──「百年余り前の日本には、こういう女性がいたのです」の一文に思わず落涙。
 村松氏が作者の早乙女氏の言葉を引用されている。早乙女氏は画家としても有名な方なのだけれど、なぜ小説の道に進んだか。それを氏は「小説の方を選んだのは、使命感だなあ」とおっしゃったそうである。娯楽小説ももちろん、いい。でも、やはりいつの時代にも「使命感」で作家を志す人というのは、絶対に必要なのだ。 (00.6.9)   

 会津士魂9.二本松少年隊

 会津に於ける戊辰戦争の悲劇と言えば白虎隊が有名だが、その陰に隠れて知名度が意外と低いのが、この二本松少年隊である。西軍が太平洋側から会津に向かって進軍する途中にある二本松藩(今の中通りの二本松市)。そこで城を守らんがために戦い、死んでいった二本松少年隊は、まだ十四・五才。中には十二という幼い兵もいた。
 戊辰戦争の悲惨さを実感するのは、こういう場面である。そんな年齢の子供が「武士として恥ずかしくない振る舞いを」と母に諭され、喜んで出陣するのだ。あとの巻に出てくるが、会津では十六・七の若者で結成された白虎隊はもとより、中野竹子・優子姉妹を中心とした娘子軍もあり、山本覚馬の妹・八重子も銃を背に戦場をかけた。「女子供までかり出したとあっては西軍のやつらに笑われる」とはいうものの、事態はそこまでのっぴきならないものになっていたのである。
 戦いの真意も知らず、ただ郷土愛に燃えて死んでいった二本松少年隊の子供達の姿は、西軍の兵の心も打ったことだろう。十三才の岡山篤二郎を看取った薩摩の隊長が
 「君がため二心(ふたごころ)なき武士(もののふ)の 命は捨てよ名は残るらん」
 と詠んだくだりは、万感胸に迫るものがある。 (00.6.13)   

 会津士魂10.越後の戦火

 三国峠の戦いで勝利した西軍は越後路へ進み、会津の飛び地・小千谷を占領した。長岡藩の河井継之助は藩の命運を賭けて西軍の岩村精一郎らに会見を申し入れるがにべもなく拒絶。河井はついに西軍討伐を決意し、北越戦争の幕が切って落とされた。
 長岡の河井継之助と言えば、今でも名前を聞く名将である。最新式の軍備を備えた藩として長岡も有名である。しかし、実際には最後の最後まで長岡は東軍にも西軍にも組みしなかった事を初めて知った。なんとなく、東軍の急先鋒というイメージがあったのだけれど、そうかギリギリまで戦火を避けようとしてたのか。それにしても西軍の軍監・岩村の態度は腹に据えかねる。ここまで読んできて思うに、百歩譲って戊辰戦争が理想に燃える勤王の志士達による東伐であったとしても(そんなことは一万歩譲ったってあり得ないのだけれど)、態度ひとつでいかようにもなったのではないか。世羅修蔵がいい例だけれど、今回の岩村も同じだ。目的をはき違えている。越後の民を人間だと思っていない。もうちょっとマシな人材は西軍にはいなかったのかよ、おい。いなかったとしたなら、そんな連中が明治政府を作ったんだからぞっとする。
 しかし、意外とあっさり長岡城は落ちるのである。そのあとの河井のあの手この手にこそ、面白味があるのだけれども、そこは読んで下さい。 (00.6.15)   

 会津士魂11.北越戦争

 河井継之助は城奪還をめざし、緻密な作戦をしかける。長岡軍の決死の作戦が功を奏して、一時的に長岡城は西軍から解放されるが、それは西軍の猛攻を呼んだ。そしてついに継之助も凶弾に倒れ──。
 本巻には長州の要人として、山県狂介(のちの有朋)が多く登場する。早乙女氏にしては、他の薩長人に比べてさほど悪い書き方はしていないのだが、丁度本巻を読んでいる最中に、皇太后良子(ながこ)妃ご逝去の報に触れた。山県有朋、そして良子様と言えば──やはり「宮中某重大事件」を思い出してしまうのは仕方がない。
 考えてみれば、あの「宮中某重大事件」も、良子様の母君が島津の出だというところに端を発しているのである。それを阻止しようとした山県有朋、即ち、島津(薩摩)に力を与えてはならないといった理由であったことは明白だ。明治政府が誕生してのちの薩長の争いは既に有名だが、その兆しは本巻で既に表れている。そして大正末期の良子様のお腰入れの時にも、こうして続いていたわけだ。なんて醜い。
 そして、その良子様がつい先日までご健在でいらした。決して、終わってしまった過去の出来事ではない、振り帰ればすぐそこにあった時代の話なのである。慶應・明治・大正・昭和・平成と元号は変わっても、それで前の元号の時のことがリセットされるわけではない。忘れてはならないこと、見過ごしてはならないことというのは、まだまだたくさんあるのではないだろうか。 (00.6.16)   

 会津士魂12.白虎隊の悲歌

 会津にとって天然の砦だった母成峠がついに落ちた。西軍はその勢いのまま、会津盆地へ侵攻してくる。城下への侵攻は時間の問題だ。ただちに藩士たちは装備を調え戦いに赴いた。その中には若き白虎隊士三十七名もいた──。
 来た! 白虎隊である。ここが読みたくて一巻から読んできたようなものなのだ。会津の悲劇と言えば真っ先にあげられる白虎士中二番隊の自刃。この巻では、白虎隊士ひとりひとりの人となりが詳しく語られる。
 実はこの話を友人にした時に「それって山の中でさまよって、あげくのハテにまだ燃えてない城を燃えたと勘違いして自刃しちゃったってこと? バカじゃん」と言われてしまい、臍を噛んだ覚えがあるのだが、まぁ事象だけをみればそういうことなのだ。だが問題は、そこに至る、白虎隊士たちの《士道》にある。飯盛山で城下が燃えるのを見て、「お城が燃えてる!」と叫んだ篠田儀三郎の気持ちはいかばかりだったか。ただの絶望では腹は切れない。日新館で学んだ切腹の作法を繰り返し修練していた、会津武士の美学である。いや、あたしは決して死ぬのがかっこいいなどと言うつもりはないので、誤解なきよう。ただ、信じるもののために死ねる、あるいは、死んでも守るべきものがある、ということの清さと強さに打たれるのである。それも、まだ十六・七なのだ。少年犯罪が何かとニュースでとりあげられる昨今、同じ十七でこの違いは何なんだ。
 白虎隊士のひとり、飯沼貞吉が蘇生したのは天命と言わねばなるまい。彼自身は「死に遅れた」「生き恥」と考えて昭和の初めまで口をつぐんでいたそうだが、彼が語らなければ、この白虎隊の自刃も後世には伝わらなかったのである。飯沼氏が亡くなった後、遺言によって分骨され飯盛山に埋葬されたと聞く。ようやく彼は、仲間との再会を果たしたのである。 (00.6.17)   

 会津士魂13.鶴ヶ城落つ

 会津若松城下は西軍の殺戮と暴虐で大混乱となり、老若男女が武器を持って果敢に戦った。重代の鎧を身に纏って敵軍に突っ込んで果てた老藩士。薙刀をふるって敵を倒した娘子軍。そして、夫や父親の足手まといにならぬよう、西軍の手にかかるよりはと自ら死んでいった女たち──そして、ついに松平容保は開城を決意する。ここに鶴ヶ城は落ちたのである。
 この巻はもう、涙ナシでは読めない。特筆すべきは、やはり女性達である。自ら薙刀をふるった中野竹子・優子の姉妹を中心とする娘子軍も素晴らしいが、あたしはどうしても、二組の女性に目が言ってしまう。神保雪子と、西郷頼母の家族たちである。
 神保雪子──鳥羽伏見の戦いのあとで、無理矢理責任をとらされる形となって自刃した神保修理の妻にして、幼年組を預かる井上丘隅の娘である。将来を嘱望された夫は先に死に、舅からは「実家で病気の母の側にいなさい」と家を出され、その実家では丘隅以下全員が自害する。しかし、ともに死のうと思っていた雪子に対し丘隅は「嫁いだからには婚家で死ね」と言い、しかしすでに舅(家老の神保内蔵之助)も自害して果てていた。修理の位牌の前でひとり死のうとしてもジャマが入り、結局雪子は娘子軍の一員として薙刀を持ち、そして凶弾に倒れるのである。
 一方、西郷頼母の家族達は、長男吉十郎を頼母のもとへよこした後、一族二十一人で一斉に自刃する。妻、その妹二人、姑、そして娘が五人、それから親類や下男下女たちである。彼らはみなで辞世を詠む。頼母の妻・千恵子の歌には死に面しながらも会津武士の妻としての気概が溢れていてすばらしい。
 「なよ竹の風にまかする身ながらも たわまぬ節はありとこそきけ」
 たわまぬ節──そんなもの、あたしには無い、と何だかものすごく忸怩たる思いに迫られるのである。また次女の瀑布子が「手をとりてともに行なば迷わじよ」と上の句を作ったのに対し、長女の細布子が「いざ辿らまし死出の山路」と受ける。この細布子は死にきれず、家に入ってきた土佐の中嶋信行に「敵か味方か、味方ならとどめを」と頼んでいるのである。中嶋が「味方だ」と嘘をついて介錯し、手を合わせたという。
 そんな例をあげていてはきりがない。ただ言えることは、これは決して時代劇として終わらせてしまっていい話ではない、ということだ。会津若松市は萩市からの仲直りの申し出を、いまだに拒んでいるのである。我々が習ってきた歴史──それは、戦争の勝利者であった薩長の人々の口によるものだということを、もう一度、再認識する必要があるのではないか。 (00.6.17)   


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