じゃじゃ本ならし


屍の聲・坂東眞砂子(集英社文庫)

 うーん、巧い。どれも雰囲気があって、温度があって、そして怖い。描写が丁寧で深みがあるから、短編なのにどれも厚みを感じてしまうのよね。描かれていない、そこに至るまでの話や、個別の登場人物のバックグラウンドや、この後の展開なんか、そういうものがちゃんと隠されてるような、そんな厚み。そして読んでる最中は、どっぷりとその世界に浸かってしまうのだ。
【屍の聲】いきなり怖い。その上、悲しい。惚けてしまった祖母と、孫娘の話。こういうのって目を背けたくなるくらい陰々滅々としちゃうもんなんだけど、暗さよりも切なさと怖さが先に立つ。
【猿祈願】女にはものすごく怖い話。こういう、歴史的・土着的にして、身近な者に向けられる怨讐ってのを書かせると、ホントに上手だなこの人は。
【残り火】この気持ちが分かる、なんていったら、この夫婦は大丈夫かといらぬ詮索をされてしまうだろうか。でも、どんなに幸せな夫婦でも、こういう体験はしてなくても、妻は妻であるというだけで、この気持ちが分かる筈だ。
【盛夏の毒】男が最後にとった手段がすごい。その後の女の描写もすごい。そこまでの長い話は、すべて、この結末のための前振りに過ぎなかったのだという気がしてくる。
【雪布団】これ、実はイチオシなのだ。ホラーだと思って読んでたんだけど、少年の見たものはオバケだと思って読んでたんだけど、最後の最後で全てが腑に落ちた。と同時に、背中に氷水がつたったかのように、ぞっとした。
【正月女】いやぁぁぁぁっ! 最後の最後に、またまた怖いぃぃぃ(;_;)。でも、怖いのは「正月女」じゃないんだよね。人の心の方なんだよね。自分が死んだらどの7人をつれていくか、指折り数えているシーンには寒気がしたと同時に、自分も同じ立場なら同じことを考えるであろうことにも恐怖した。
(00.12.1)     

夏の口紅・樋口有介(角川文庫)

 年上の彼女の部屋から自宅に戻ったら、いきなり母から「あなたのお父さんが死んだ」と告げられた。両親が離婚して以来、あったこともなければ記憶もない父親である。とりあえず父が住んでいたという家に行ったものの──
 樋口氏お得意の青春もの──なんだけど。初期の作品にしては、当時の他の青春ものである
「八月の舟」とか「ぼくと、ぼくらの夏」とか「風少女」などとはちょっと趣を異にする。どっちかと言えば、柚木草平シリーズの趣に近いのだ。樋口氏の青春ものだから、それはもう言うまでもなく爽やかでシャレててペーソスもあって、そして主人公の青年はさめてて、でも暖かくて、リアリティがないくらいかっこいいのはいつもの事なんだけど、それだけではなく、どこか妙に作品が骨太なのである。
 父の家で初めて出会った少女。情緒不安定な彼女の接する主人公の、その保護者的な愛情の示し方が、著者の他の青春ものにはない骨太さの要因になっている。その態度は母親に対しても、父の義理の姉に対しても同じである。常識がなくて子供っぽさの抜けない母親、気は強いが少々ずれたおばさん、そういう人々に対して、「しょうがねえなあ」と思いながらもケアする主人公。出来すぎと言ってしまえばそれまでなのだけれど、大人の思いやりを感じるのだ。
 だからこそ、父の知人をあたるうちに知ってしまった真実には、大人であった彼の一部が壊れかける。そこから、まだ大人にはなっていない部分が顔を覗かせる。しかし、それをもすぐに「大人の顔」で覆ってしまうのだ。大学生の青年が。やっぱ出来すぎかな。うん、もしかしたら、そこがこの話の欠点かもしれない。だけど、彼が「出来すぎ」だからこそ、周囲の危うさが引き立つんだよね。著者の他の青春ものでは、どうも女が強くてわがままで、男はそれにふりまわされてばかりなんだけども、この作品では「ふりまわされてあげる」という雰囲気がすごくヨカッタのだよ。 (00.12.17)     

長い長い殺人・宮部みゆき(光文社文庫)

 財布の視点で話が進むのだ。それも長編なのだ。動物の視点ってのは例が多いけども、財布だぞ財布。よくまぁ考えつくよなぁ、そんなこと。おまけにそれが巧い。財布ってのは、外出する時にはポケットの中かバッグの中である。だから、周囲は見えないのだ。だから財布は《聞こえた声・音》の描写が中心である。或いは、《自分の揺れ》から持ち主の行動を推理したり、自分を持つ手の震えから持ち主の心情を察したり──持ち主が他のモノをとるためにバッグの口を開けた、その隙に外の様子を見たりする。巧いなぁ。うん、実に巧いのよそのあたりが。いつも持っている、というところで財布にしたんだろうけど、財布ってのがまた、その人のいろんな部分が投影されてるもんなんだなぁと実感。ああ、巧い。ホントに巧い。他に言いようがないのかと自分でも思うが、巧いものは巧い。
 話は《刑事の財布》から始まる。刑事の胸ポケットに入れられた財布は、刑事とともに事件現場へ。それから色々な登場人物の財布へバトンがわたされ、そしてそれが次第に収束する。
 各章がちゃんとひとつのミステリとして成立してるし、テクニックについて言えば、もう申し分ない。ただ、その趣向が勝ちすぎたきらいがあって、肝心の物語の方がちょっとダイレクトに伝わってこないのが残念。すっごく怖い話なんだけどね、これ。少年のココロは切ないし、他人を信じた教師のココロも痛いし、犯人像はマジに反吐が出るくらいに腹が立つ。だけど、あまりの著者のテクニシャンぶりに、自分自身がすっかり財布になっちゃってるもんで(笑)、そういう人々からはちょっと離れて見ちゃうのよね。ううん、残念。
 とはいえ、登場人物の気持ちが伝わってこないということでは、決してない。この著者特有の、切なさと、それに付随する「にっこり笑ってバカを斬る」小気味いい残酷さ、そして暖かさが十二分に伝わってくるのである。──あ、今、気づいた。この趣向から《財布》というフィルターをはずしたのが
「理由」なんじゃなかろか。 (00.12.18)     

十角館の殺人・綾辻行人(講談社文庫)

 言わずと知れた伝説の作品である。《綾辻以後》という言葉が生まれる礎となった作品である。物語の内容については読み手の好みもあるだろうし、文句がないワケでもない。しかし、この作品は内容云々よりも、この作品が生み出されたということ、そして出版されたということに意義がある。島田荘司が道をつけた山に賭け登り、後に続く多くの人々の目印になるように旗を降ったのが綾辻氏であり、この作品なのだ。
 大分県S半島J崎の沖にある角島。そこには異端の建築家・中村青司が作った十角館があるが、とある事件のせいで今は無人島になっていた。そこへやってきた大学ミステリ研のメンバーたち。そして孤島で事件は起こる──
 出版時に読んだきりだった。それから10年以上たって再読してみた。初読の時の感想をそのまま思い出した。互いをエラリイとかポウとかアガサとか呼び合うミステリ研の大学生たち。初読の時はあたしも大学生だったのだが、それでも「青臭ぇーっ!」と思ってしまった程に青臭い。なんかもう、それだけでゲンナリした。おまけにそれ意外の人物が、江南に守須に島田潔に巽昌章って……正直なところ、初読の時は「なんだか内輪受けの同人誌読まされてるみたい」という気持ちが抜けなかったのだ。だがしかし。この作品を読んだ人なら、そういう感想を持ちながら読んだあたしが最後にひっくり返ったことは容易に理解できるでしょう(笑)。はい、そうなんです。知ったかぶりして「新本格って、こういうところが子供っぽいのよね」などと偉そうに講釈たれた結果がこのザマです(笑)。あたしの負けです。
 やはり、伝説となるにはそれだけの理由がある。ものの見事にダマされた。いや、そりゃね、本格にはつきもののご都合主義とかリアリズムの無さとかはありますよ。ええ、ありますとも。それでもねぇ、ここまで盛り上げてくれて、ここまでキレイに騙してくれたら、それだけで充分じゃないですか。おまけにラストも余韻があっていいし。
 ところで。蛇足ながら、何にせよ、あたしは大分出身なのだ(笑)。大分県S半島J崎とかO市とか、イニシャルで地名をぼかしている割には、別府だの国東だの安心院だのの具体的な地名も同時に登場するのが据わりが悪くて、それが初読当時の最大の謎だったのだけれど、それは今読んでもやはり同じだった。おまけに(それがお約束なのは重々承知の上で)自分の地元が舞台になると、言葉や文化が実際と違うという違和感をどうしても感じてしまう。これはまぁ、しょうがないんだけどね。どうして大分にしたんだろうなぁ。確かに大分県にはイワクのある島はたくさんあるんだけど。(付記:後に、読者の方から「奥様が大分出身だからではないか」というメールを頂きました) (00.12.21)     

しあわせの書〜迷探偵ヨギ・ガンジーの心霊術・泡坂妻夫(新潮文庫)

 うわぁ、びっくりしたぁ!いやもう、ホントに驚いた。ひっくり返った。マジに驚嘆した。この著者の《遊び好き》は重々承知していた筈なのだけれど、それでも「うわぁ!」と叫んでしまった。
 一見無関係に見えた爆発事故や飛行機の墜落、しかしその被害者となった人々が、後に「幽霊を見た」と噂されたり、実は死んでいないとイタコが言ったり……その影には、ある新興宗教の教団と、そして「しあわせの書」と題された一冊の本があった。
 ヨギ・ガンジー初の長編である。後半の山場である断食修行と、そこに隠されていた真相はなるほどと膝を打つもので、そう言えば伏線があったじゃないかと臍を噛むことしきりである。新興宗教の教団内に潜入するというサスペンスも手に汗握るし、不可能興味に彩られた魅力的な謎も読者を物語り世界に誘い込むに充分である。
 だが、しかし。本書に隠された本当の真相の前には、そういう様々な魅力も霞んでしまう。最初の方で出てきて「おお、これはどういうトリックなんだ?」と惹かれた箇所、それが最後の方になってもなかなか明らかにされない。あと残る秘密はそれだけなのに、著者が出し惜しみしているのか、なかなか教えてくれない。そしてようやく、その謎が解けたと思ったら──「うわぁ!」と叫んでしまったのである。
 いや、もう多くは言うまい。何を言っても興を削ぐ。本格推理、謎解き小説として読んでも充分なレベルであることは間違いないが、それよりも何よりも──とにかく、すごいのだ。すごいとしか言えないのだ。驚きに飢えてる人はこれを読め! 驚くと同時に、心の底から感心すること間違いなしだから。 (00.12.25)     

真赤な子犬・日影丈吉(徳間文庫)

 国務大臣の娘にして新進の歌手のもとに贈られた送り主不明のクリスマスプレゼントは、真赤な子犬。彼女は分かれたばかりの恋人が贈ってきたのだろうと思ったが、その彼は事業の行き詰まりと恋人との別れのせいで、自殺を決意していた。そして自殺の手段として夕食に自ら毒を入れたのだが、なんとその食事を国務大臣が食べてしまった!
 うわぁ、日影丈吉って、こういうのを書くのかというのが第一印象。コミカルで粋で、なるほどエスプリである。どうしてなかなか道具建てはキッチリ本格推理ではないか。誰も階段を昇らなかった階上での事件。そこへ行くには荷物用のエレベータを使うしかない。真相を知っている読者の前で途方にくれる刑事が面白い。そして中盤で起きる別の殺人事件。《雪の上の足跡》という、これぞ本格推理というサービス精神満載である。探偵役を割り振られた人物も、身体に不具とも言える特徴を持つコックも、マッドサイエンティストまがいの研究者も、強気で頭の回転が早い大臣の娘も、雪の上の足跡も、どれもこれも「本格推理だぞーーーーー!」と叫んでるかのような……いや、違うな、「本格推理って、こういうのでしょ? こういうのでいいんだよね?」と著者がニヤリと笑ってるような、そんな道具建てに満ち溢れてる。本格推理そのものよりも、それをパロってる──とまでは行かないにしろ、ちょっと遊んでるような妙味・ケレン味があるのだ。
 このトリックをどうとるかは読み手の好み次第だと思うが、あたしは何だかこの作品の持つスタンスを面白く味わった。なにしろ章題に「本格物の退屈な部分」なんてのがあるんだから(笑)。 (00.12.26)     

遺品・若竹七海(角川ホラー文庫)

 「ヴィラ・マグノリアの殺人」「古書店アゼリアの死体」でお馴染みの葉崎市で、美術館の学芸員をしていた《わたし》は、金沢にある銀鱗荘ホテルへ誘われた。今は亡き女優・曽根繭子に関するものを集めた展示室を開く計画があるので、学芸員として来て欲しいというのだ。しかし、そこには……
 ホラーと銘打たれているので、怖いのが苦手なあたしは、どれだけ怖いかとドキドキしながら読み始めたのだが、あにはからんやなかなか怖くならない。むしろ、登場人物達の会話(これが巧いんだよなぁこの人は。ものの言い方で性格やスタンスを手に取るように読者に分からせてる)に引き込まれたり、謎めいた「曽根繭子コレクション」にワクワクしたり。もちろん、幽霊話も出てくるのだけれど(そしてそれがメインなのだけれど)ホラーの怖さではなく、良質のミステリが持つ怖さなのだ。物語が進むにつれて起こる不可解な事件。そしてそれが論理的に解決されるのが分かっている安心感。もちろん、ホラーなんだから論理的解決もへったくれもあったもんじゃないのだが、ホラーでもこの世界には一定のルールがあり、そのルールの中できちんと論理的解決が示されるであろうという、なんだかそういう安心感と期待感でいっぱいになるのだ。
 それがホラーとしていいことなのか悪いことなのかは、あたしには分からない。しかし物語としてはとても上質である。どんどん大きくなっていく不可解さにワクワクし、真相(と言っていいのか分からないが)が分かった時には世界がくるりと反転するかのような興奮とカタルシスを味わった。これはもう、ミステリの楽しみ方である。この物語は、あたしに言わせればホラー風味の上質なミステリなのだ。それに加えて魅力的な登場人物、切ないエンディング、計算された人物配置や構成、そして物語全体を貫く銀鱗荘と曽根繭子の持っている濃密な雰囲気など、思わず「巧い!」と唸ってしまう。
 ところで。怖くないと書いたけど、読み終わったあとで夜中に鏡を見るのは、やっぱちょっと怖かったぞ(笑)。 (00.12.27)     

夏と花火と私の死体・乙一(集英社文庫)

 小説は本来作品それ自体を評価するものであって、著者の年齢だの性別だのは関係ないってのは分かってるんだけど、やっぱこれを書いたのが当時16才の少年だっつーのはスゴイよなあ。若さならではっていう点もたくさんあるんだけど、それにしてもこの構成力とストーリーテリングは、生半可なものではない。
【夏と花火と私の死体】「健くんが好きなんだ」と打ち明けた9才の私は、健くんの妹である弥生ちゃんから嫉妬で殺されてしまう。私の死体を見つけた健くんは、こともあろうに弥生ちゃんと協力して私の死体を隠し始めた……殺された「私」が語り手となって物語が進む。小学6年生の健と、9才の弥生の兄妹が、大人達の間で「私の死体」をどう処理するのか。何度も見つかりそうになりながら、その度に機転をきかせたり幸運に助けられたり、すんでのところでクリアしていく。その様が、もう読んでてハラハラするのである。一歩間違えれば三谷幸喜が書きそうなシチュエーションコメディにもなりそうな(笑)、だけどそれでいて、弥生の張り裂けんばかりの恐怖も伝わってきて、クライマックスはとても印象的で映像的で巧くって、おまけにエンディングは衝撃的で、とにかく息をするのも忘れてページをめくってしまう。
 この物語の問題点は、おそらくいろんな所で指摘されてるとは思うが、その特異な視点にある。「私の死体」からは知りようのない場所の情報や他人の心情がばんばん描かれるのである。批評家風に言えば「視点が定まってない」のだ。本来なら、これは大きな瑕疵である。だがこの物語の場合は、返ってその矛盾が妙な効果を上げてるんだよなあ。「どうしてこんなことを《私》が知ってるんだよ」と突っ込みたくなるんだけど、じゃぁこれを三人称で書いたらどうかというと、ここまでの雰囲気は出せなかったんじゃないかという……これ、計算なんだろうか。計算なんだろうなあ。計算じゃなきゃ、あまりに杜撰だもの。しかし杜撰が転じて効果になってるわけで……いや、これはやはり物語そのものの勢いが杜撰さを隠しているだけなのか? ああもう、ワケわからん。この妙な《視点のぶれ》が効果を上げると同時に、ずっと違和感になってつきまとうのよね。そのあたり、非常に評価に困るのである。これ、手練れの作家が《私の視点》に固定して書いたらどうなるんだろう。それを読んでみたい気もする。
【優子】戦後、お屋敷にお手伝いとして雇われた清音は、一度も見たことがない「奥様」に疑問を抱き……キレイにまとまっているけれど、【夏と花火と私の死体】の後ではインパクトに欠けるよなどうしても。 (00.12.28)     

果しなき流れの果に・小松左京(角川文庫)

 六千万年前の中世代の岩層から、砂時計が発掘された。その砂時計は上から下へと砂が落ち続けるのだが、いくら落ちても上下の砂の量が変わらないという不思議な砂時計だった。その謎を探るべく、番匠谷教授と野々村は発掘場所である和歌山に向かうが……
 時間旅行をテーマにした作品は多々あれど、このスケールの大きさにはビックリだ。話がどんどん飛ぶので正直ついて行くのが大変で(笑)、何度も前に戻って読んだりして。思わず途中で年表を作ろうかと思ったほどである。とにかく、それほど舞台の移動が多いのだ。そしてそれが、後になって──或いは前に戻って──繋がった時の膝を打つ快感。そしてここに描かれる《未来》の恐怖。それは、もしかしたら今のあたしたちも……という恐怖でもある。
 エピローグ(1)は、その前に書かれた第2章の最後のシーンが何だったのかを解きあかしてくれる。そこで初めて、読者はこの二人の数奇な運命の全貌を知ることができるのだが。この二人の最期がこのような形で終わったことに、残念に思うと同時に、どこかで安心している。これほど壮大なスケールのドラマを、こういう卑近な場所への感動で片付けてしまうあたしもどうかと思うが(笑)、いやもう、あたし自身がスケールのでかい話よりも卑近な部分に惹かれるタチなので勘弁して下さい。とにかく、このくだりが一番心に残ったのである。そして、もしかしたら今、寝室で眠っている自分の夫が、ひょっとしたら一旦22世紀に言って白亜紀に飛んでそれから帰って来て眠ってるのではないかというような、それはあたしにとっては限りなく無に近い刹那の間に起こりうることなのだというような、そんな不思議な感慨をもたらしてくれたのである。 (00.12.30)     


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