戊辰算学戦記・金重明(朝日新聞社)
幕末。朝廷を立てて進軍する薩長は、ついに長野・新潟にまで及んだ。幕府軍の結城勘兵衛は長岡藩近くで戦闘の準備をしていたが、地元の神社で算額(数学の問題を額に書いて奉納したもの)を見つける。かなりレベルの高い算術である。算術に強い興味と能力を持つ勘兵衛は、この算額を奉納した人物を訪ねた──。
ジャズピアニストの山下洋輔は、ひょんなことから亡祖父が建築家だったことを知る。それも監獄の設計が専門だったとか。祖父が設計した鹿児島監獄は、一見刑務所とは思えない凝った石造りの建物で、殊にその門のインパクトたるやすさまじい代物。ところが山下洋輔が鹿児島監獄と祖父の関係を知った丁度その頃、鹿児島監獄は取り壊しが決まっていた。刑務所前で取り壊し反対ジャズコンサートをやろう!──東京、鹿児島、そしてドイツにアメリカと地を駆け、おまけに幕末まで時を駆けてしまう、ノンフィクションに立脚したスラップスティック風味満載の一大エンターテインメント!
ドバラダ乱入帖・山下洋輔(集英社文庫)
メイキング・オブ「ドバラダ門」、及びそこから派生した後日談などのエッセイ集。氏の他のエッセイ集に比べればややおとなしめだが、これはまぁ「ドバラダ門」がベースにあるという制約上致し方ない。テーマのメインは、自家に伝わる西郷隆盛の写真(絵?)のルーツを探ること。そしてついに著者は宮内庁にも入り込み、やんごとない方にもお会いしてしまうのである! うわははは。
もともとはWWW.さとなお.COMというウェブサイトに掲載されて大評判となった讃岐うどん食べ歩き大爆笑レポートの、紙出版である。元来ソバ派で、うどんなんて地方によって出汁や具が違う程度、麺はたいしたことないと思っていた筆者。香川出身の人が讃岐うどんの魅力を説いても「郷土愛だ」とハナもひっかけなかった筆者。ところが、大阪のとある店でであったうどんにショックを受ける。こんな美味しい麺があったのか! ところが香川のうどんはもっと美味しいと言う人がいる。だったら試してみようじゃないか。
恐るべきさぬきうどん・(株)ホットカプセル
このような書き方では(株)ホットカプセルてのが筆者なのか出版社なのか分からず、買おうにも注文できないではないかと思われそうなのだけど、どうやら出版社のようです。筆者は、奥付によれば「ゲリラうどん通ごっこ軍団(略称麺通団)」となってるんだけど、表紙にはその名前が書かれてないので、むしろそれをアテにすると探し出せないかと思いまして。妙なところで手間のかかる本だな。
吾輩は猫の友だちである・尾辻克彦(中公文庫)
赤瀬川原平氏が本名で書いたエッセイ──の筈なんだけれど、どうも小説を読んでるような気になる。筆者と、娘のチチヤス(いくらあだ名って言っても……)、妻の桃子、母のトヨ子(これがまた途中で名前が変わったりする)の4人家族に、ある日、小さな黒猫が加わった。そこから始まる物語。
次々と起こる殺人事件。どれも犯行の手口は一緒で、同一犯によるものと思われるのだが、被害者の共通点はまるで浮かんでこない──ミッシング・リンクを扱った、昭和37年度の推理作家協会賞受賞作。
八代将軍徳川吉宗の時代。尾張には実に破天荒な藩主がいた。七代尾張藩主・徳川宗春その人である。実は宗春は、尾張徳川家の二十男(げっ)。普通ならどこぞに養子に行かされるか、部屋住みの若様として学問芸術に励むかしか道はない。二十番目の男の子が、どう逆立ちしたって藩主になんかなれる筈がないのだ。その気楽さから宗春は、色々な遊びを覚え、自由奔放な人生観を構築していく。ところが運命は宗春を放っておかなかった……。
戊辰戦争の最中に、数学である。官軍か賊軍か、勤皇か左幕か、長岡が落ちたら会津まですぐだとか、そういう時代に数学である。何をしてるんだおい、とつっこみたくなるが、つまりは、どういう社会情勢にあっても、学問(或いは芸術でも趣味でも何でも)を極めたいという思いは、確固として存在するということなのだ。学問や芸術や趣味に対する「好き」という思いは、時として非常に強く激しく、他の何物をも圧倒する力を持つのだ、と、そういうことなのではあるまいか。
勘兵衛は、高度な和算(足し算のことじゃないのよ、日本の算数の方法のこと)能力を持つ老人とその孫娘に、フランスの算術を教える。五次方程式──その理解と証明に浸食を忘れる老人と孫娘。うげえ、信じられない(笑)。これは日本の戯作や徘徊しか知らなかった文学好きに、初めて翻訳小説を読ませたようなもんだよな、と無理矢理自分を納得させる。だって分からないんだもん!
彼らがある程度の極みに達した時、それはまるで悟りを開いたかのように描写されてるのだが、「数学の魅力」をまるで解さないあたしにとっては、何だかさっぱりわからんぞ。うわはははは。← 笑うところじゃありません。
戊辰戦争の結末というのはご承知の通りで、つまり勘兵衛がどうなるのかは前もって分かっているようなものなのだが、それでもその際まで、好きな算術に没頭できたというのは、幸せなんだろうな。
(01.1.27)
ドバラダ門・山下洋輔(新潮文庫)
とにかく、自らのルーツを辿ると言えばそれだけで壮大なドラマである。おまけに筆者のルーツそれ自体がメチャクチャ面白い。先祖は西郷隆盛と親しいし、北越戦争にも西南戦争にも従軍してるし、司馬遼太郎の「翔ぶがごとく」に登場するし、史上最初のミス日本に選ばれるし、ノイローゼになって座敷牢に幽閉されるし、曾祖父は刑務所長で祖父は刑務所設計者だし、そんなすごい家系なのに当人は何も知らないし。それが分かっていく過程が綴られたノンフィクションだから、面白くないわけがない。
しかし、純然たるノンフィクションというわけでもないのだ。なんせ筆者はあの山下洋輔である。一筋縄で行くワケがない。江戸時代の先祖・山下清太郎が薩摩人でありながら何故か江戸に遊学していたことを知り、きっと清太郎はかなりの秀才だったに違いないと決めつける。まぁ、ここまではいいのだが、清太郎は秀才が講じて平賀源内(時代が違うっちゅーねん)に弟子入りしてしまい、なんと平賀源内の作ったタイムマシンで未来へ飛んでしまうのだ! おまけにその時、間違って一緒に飛ばされた頭の弱いな学友と身体が入り交じってしまい、二重人格者として時間の波を放浪するのである。頭の弱くて(実は秀才との二重人格)汚い身なりでスケッチブックを持ち、全国を放浪する山下清太郎──山下清(笑)。この時点で爆笑だ。まぁ、江戸時代の人間が筒井康隆を読んでたりする\(^o^)/くらいだから、あとは推して知るべしである。
ここまで壮大で、ここまでミステリアスで、ここまでエキサイティングで、そしてここまでハチャメチャな小説があったろうか! とにかくこれは読まねば損だ。
(01.2.5)
また毎回書き手が猫だったりご先祖様だったりして、それも楽しめるし──今気づいたが、山下氏のエッセイってのは登場人物(動物)の描き方がいいんだな。この中にあたしも入っていきたいっ!という気になるもの。ま、筒井康隆だのタモリだのと飲んでるわけで、それだけでも「入っていきたい」と思わせるに充分なんだけどもさ。
また、絵のルーツを辿るくだりは素直に「早くホントのところを知りたい」というワクワク感を味わえる。こういう《調査》には終わりはなくて、一つ分かれば二つ知りたいことが出てくるようなものだから、いつまでも楽しめるよなぁ。また、それらをまとめて「ドバラダ門」その後、みたいなのを上梓してくれないだろうか。
(01.2.5)
うまひゃひゃさぬきうどん・さとなお(コスモの本)
こうして始まった讃岐うどん体験の旅。最初は軽く見ていたのが、だんだんハマっていく様が細かく描かれている。家族を巻き込んでの一大チャレンジ。「恐るべきさぬきうどん」を片手にうどん屋を巡る珍道中。食事が終わると同時に「お腹すいてぃぁ! なんか食べゆ!」と叫ぶ驚異の胃袋を持った2才の娘と、駄洒落を言うためだけにワザと道を間違えるような妻、そして美味しいもののためならば三千里でも走るという筆者の物語は、もう涙(笑いすぎて)無しには読めないのである。
そもそも、美味しい食べ物と笑いというのは、人間の二大幸福要素ではなかろうか。美味しいものを食べ、大笑いしてれば、たいていの不幸は逃げていくような気がするのだ。その両方がこの本には詰まっている。まず、とにかく読み終わると同時にスーパーへ走って「加ト吉の冷凍さぬきうどん」を買ってしまわずにはいられないほどの、いかにも美味しそうなさぬきうどんの描写。料理をホントに美味しそうに描写するってのは実に難しいのだが、これはホントに食べたくなる。おまけにこの家族の会話が楽しくて楽しくて、何度「うわはははは」と爆笑したことか。
正直に言うと、最初にウェブサイトで読んでいたので、ウェブサイト特有の小技──落ちまでスペースを空けてスクロールさせる、とか──が使えない分、ちょっとパワーは落ちて見える。しかし紙出版にしては、ウェブサイト掲載時の雰囲気や味を極力損なわないようにしているのが分かるし、とにかく若干見た目が変わったくらいでは損ないようがないほどの魅力的な文章なのだ。しょっぱなから笑わせてくれること間違いなし。それも品のいい、センスのいい笑いである。うどん好きもそうでない人も、これはお薦めだ。
(01.2.8)
手間がかかると言えば、本書のタイトルは正式には「月刊タウン情報かがわ『ゲリラうどん通ごっこ』単行本 誰も書かなかったさぬきうどん針の穴場探訪記 恐るべきさぬきうどん」となっているのだが、そんなもんいちいち書いてられないので「恐るべきさぬきうどん」で通させて頂く。ってゆーか、一般的にも(書店でも出版社でも)それで通ってるみたいだし。
というふうに書けばお分かりだろうが、これは「タウン情報かがわ」という、いわば「ぴあ」香川版みたいなものに連載されていた、うどん屋紹介コラムが本になったものである。が、しかし。単なるグルメ本ではない。いや、全くグルメ本とはその趣を異にしている。これはまごうかたなき「お笑い本」である。お笑いの合間にうどん屋を紹介しているに過ぎない。いや、確かにうどん屋は紹介されてるんですけどもね、それよりお笑いのインパクトの方が……(笑)。
これは香川県内のうどん屋の中でも、「こ、こんなところにうどん屋が?」という店ばかりを特集したもの。本業は米屋だったり、郵便局員の休憩所という看板が出ていたり。だけどそういうところに「キング・オブ・さぬきうどん」は確かに存在しており、ガイド本としても確かに秀逸なのだ。秀逸なのだけれど……香川に旅行する予定があるわけでもない他県人が読んでも楽しめる、というあたりがそこらのガイド本とは違うのである。
ぐわははは、と笑えるそのギャグは大半が文章の妙によるものなので、それが「好きなタイプのお笑い」じゃなければそれまでなのだが、あたしはけっこうツボにはまったのであるよ。
(01.2.8)
猫エッセイとなれば、あたしの中では庄司薫氏の「ぼくが猫語を話せるわけ」が筆頭なのだけれど、あれが純然たるエッセイなのに対して、これは猫のペリーのいる風景を小道具にしながら、尾辻家の物語を書いているように見えるのだ。妻とのケンカ、妻の家出、娘の一人旅、隣の家のこと……エッセイと呼ぶにはちょっとドキリとさせられるような描写もある。飄々と描かれている風景の中に、時折ゾクリとさせられるような人間模様が混じっていたりする。そうかと思えば、何の衒いもなく「わははは」と笑える一節もある。うーん、深いなぁ。
特に、事実かどうかはさておき、なさぬ仲である桃子とチチヤスの描写は読ませる。喘息持ちのチチヤスを甘やかさずに育てる桃子。でも、「結局この家ではあたしだけが他人」という思いを捨てきれず、家を出てしまう。その翌日に筆者とチチヤスは昼食を食べに出るのだが、食べたかった蕎麦屋は休み。筆者はどうしてもなめこおろしが食べたかったのに……仕方なく中華料理にしようという筆者にチチヤスは言うのだ。「今日はなめこおろしの気分だったのにな」
これだけの描写が、何だか妙に切ないのである。筆者やチチヤスにエールを送りたくなる。そして勿論、桃子にも何か声をかけてあげたくなる。頑張れ、と言いたくなる。そして桃子が帰ってきた時の安堵。
うん、やっぱこれはエッセイじゃないよ。立派な小説だわ。
(01.2.11)
細い赤い糸・飛鳥高(講談社文庫)
……うわあ、今、自分で書いてビックリした。あたしが生まれる前の作品だったのかコレ。今から40年近くも前である。それなのに全然古くない。いや、風俗は確かに古いんだけど、物語がまったく古さを感じさせないんだよなあ。偶然にも昨年読んだ土屋隆夫氏の「危険な童話」が同じ年の出版なのだが(そして推理作家協会賞の候補にもなっている)、同じように、風俗はさすがに古いものの、物語はまったく古くないのだ。つまり、普遍性を持っているということである。これは凄いことだぞ。
ミッシング・リンクというのは今でもミステリの一潮流であることは周知のことだが、この物語はそういう点ではちょっとアンフェアである。読み進むうちに「このあたりがちょっと怪しいぞ、このあたりが後になって響いてきそうだぞ」という箇所があるにはあるのだが、結局「リンク」が何だったのかについてのダイレクトなヒントは非常に少ない。そういう意味では、読者は刑事の捜査を後追いでついていくしかなく、アレコレ推理を巡らす楽しみというのは薄いかもしれない。
しかし、それでもこれは充分楽しめる。「ああ、こういうことだったのか」と分かった時、膝を打つ快感より先に、やるせなさや腹立たしさがこみ上げる。これが社会派(という意識が筆者にあったかどうかは別として)の真骨頂ではなかろうか。社会が持っている、どうしようもない不条理。わざとではないのだが、他人の自分勝手な行動のしわ寄せを結果として受けてしまう人達。ミッシング・リンクの鮮やかさよりも、犯人の、そして被害者の、それぞれの思いが切なく胸に来る佳作である。
(01.2.11)
尾張春風伝(上下巻)・清水義範(幻冬舎)
とにかくもう、清水義範氏の語り口が最高である。パスティーシュで有名な作家さんのせいか、全体が《キッチュな司馬遼太郎》なのだ。ところどころに「筆者」が登場するあたりも司馬遼太郎と同じである。しかし清水氏特有の筆運びも勿論全体に流れてて、とても楽しく読める。なんせ江戸元禄の話なのに、地の文にデザインだのデリカシーだのニュースだのという言葉がばんばん出て来るのだ。それが悪いのではなく、かえって効果的なあたりが清水節である。つまり、これは時代小説というよりも、清水氏本人が親戚の子供たちを集めて「昔、名古屋にはこんな面白い殿様がいたんだて」と話してきかせているような感じなのだ。聞いてる子供たちが「へぇー、すっげえ、おもしろーい」と喜ぶと、「そうだろ面白いだろ、他にもこんな面白い話もあるで」と、どんどん話してくれるような──そういう親しみやすさと入りやすさがあるのである。これは時代小説なんか苦手だぁ、と思ってる人に是非読んで欲しい。
そして勿論、話自体も面白い。徳川吉宗ってのは、バブルの元禄が終わったあとの不景気を何とか切り抜けようと倹約令を出したことでも有名だが、そんな時代に宗春は、尾張名古屋をどんどん派手にしていくのだ。遊郭を作り、祭りを盛大に行う。とにかく楽しむことを第一義にする。「藩主は民衆とともに楽しむんだ」という宗春。将軍のやり方に真っ向から異を唱えているのと同じなので家臣はハラハラするのだが、宗春は一向に気に介さない。とにかく爽快にして、気宇壮大というか豪放磊落というか。やけに気持ちのいい殿様なのだ。しかし、宗春の運命は……あれだけ楽しませておいて、この悲しい結末はいったい何?(;_;)
この宗春の墓が偶然にもうちの近所にあることを知った。近いうちに是非一度お参りしにいこう、という気持ちにさせられる。
尚、今回あたしは幻冬舎のハードカバーで読みましたが、確かもう文庫になってた筈です。
(01.2.8)
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