じゃじゃ本ならし


マリアのうぬぼれ鏡・森茉莉(早川暢子編)(ちくま文庫)

 筆者の森茉莉氏は、森鴎外の長女。「父の帽子」などのエッセイ集や、泉鏡花賞を受賞した「甘い蜜の部屋」、それから自らの生活を題材に綴った「贅沢貧乏」など、どこまでも美しい文章と羽ばたくように奔放な内容が魅力の、あたしの最も好きな作家のひとりである。この本は、そんな森茉莉氏の数多いエッセイから、テーマ別に様々な《言葉》を拾い集めた《書かれた森茉莉語録》だ。
 とにかく文章がいい。文体が、そして語彙のひとつひとつが選び抜かれて並べられたものだというのが分かるような、それでいて押し付けがましくなく、自然にすんなりと胸に届くような、そんな文章。森茉莉氏の文章は、頭ではなく心に届く。特に自らを語った言葉を集めたこの《語録》を読むと、自分もこんなふうに暮らしたい、こういうふうに感じたいという、仄かな憧れを抱かずにはいられない。何か特に教訓めいたことを言うわけでもなく、えらそうなことを言うわけでもない、ただ淡々と目の前にあるものや、胸のうちにあるものを、選び抜かれた言葉で文字にするだけである。それなのに、これだけの深みと温度を持つのはなぜなのか。文章の粋が、ここにある。
 とにかく、あたしごときがいかに説明しても、本編の魅力の何厘すら伝えられないだろう。読んで貰うのが一番だ。例えば、【想い出】の項にある言葉。

 洋杯(コップ)の中の水の光。浴槽の、たちのぼる湯気に煙る白い光。銀色の鍋に渦巻く沸湯、
 その中で浮き沈みする白い卵。フライパンの中で焼き上がってゆくオムレツの、明るい黄色の輝き。
 秋の朝、白い皿は冷たく光っている。それらを見て、生まれたままの感覚で楽しんでいるなら、
 趣味なぞはその楽しい心の中にあるのではないだろうか

 ──そうしてこれは、あたしの座右の書になったのだ。とにかく、そばにおいて、気の向いた時に気の向いたページをめくって欲しい一冊である。 (01.9.25) 《この本の詳細情報&注文画面へ》       

みんないってしまう・山本文緒(角川文庫)

 誰しも覚えがあるような、ちょっと痛くて、ちょっと切ない、恋愛小説集。
【裸にネルのシャツ】ある日突然、男が出ていった。自分のものは全て持って、私のものは全て残して──捨てられた痛みをようやく乗り越えようとした時、かかってきた男からの電話。恋愛の《勝ち負け》の側面をスッパリと切り取って見せてくれる。その小気味よさと寂しさがないまぜになった掌編。
【いつも心に裁ちバサミ】四角四面で融通のきかない女性の同僚。でもその裏には──ありがちの設定なのに、最後まで彼女が涙を見せないところがいい。
【不完全自殺マニュアル】自殺しよう、でも死ぬならその前に……最後になってわかる主人公の自殺の動機とその顛末。自らの弱さやバカさ加減に気づいたその時が、生まれ変わる時なのだと心に残る。
【愛はお財布の中】でかけたはいいが財布がない。しかたなく頼ったのは……ついてない一日だったけれど、それでも最後になって暖かい一編。
【ドーナッツ・リング】数少ない、既婚男性が主人公の話。うんうん、踏みとどまってくれてよかった、と思ってしまったあたしはやっぱ既婚女性なんだなぁ(笑)。
【45ライフ】ちょっと変わった奔放な一家の物語。この妹の気持ちは手に取るように分かるけれど、この姉や母のように生きてみたいという想いは誰しも持っている、のかもしれない。
【みんないってしまう】久しぶりに出会った旧友とお茶してる最中、昔、同じ男と付き合っていたことが分かる。彼に電話してみようと言い出して……そこから先は「えっ」と驚いて、そして笑って、ちょっと淋しくなって、でも最後に暖かくなる。秀作。
【イバラ咲くおしゃれ道】オシャレに命を懸けるツルちゃんと、同居する私。コミカルな話だと思って読んでいたのだが、なんだか最後は泣きそうになって(笑)、そして元気が出た。
その他、【表面張力】【まくらともだち】【片恋症候群】【泣かずに眠れ】を収録。 (01.9.26)
《この本の詳細情報&注文画面へ》    

夜明け前の殺人・辻真先(実業之日本社)

 島崎藤村原作の「夜明け前」が舞台となり、主演女優の熱演が話題となっていた。しかしその公演最終日に事件が起こり……十年後、その女優の弟が事件の謎を解く。
 辻真先氏というと、どうしても若者向けライトミステリのイメージが強く、おまけに氏の描く《若者》や《若者言葉》はどうにも古くて、なんだかなぁ……という印象を持っていた(スミマセン)のだが、ここへ来て大人向けのミステリを何作か読むと、思わずのけぞってしまうようなトリックや趣向が多くて、思わず居住まいを正してしまう。あたしはもしかして、この常に第一線を走ってきた大ベテランを、ものすごくバカにしていたのではなかろうか? 一部の作品だけを読んで、それで全部を分かった気になっていたのではなかろうか? うわあ、今となっては穴があったら入りたい。2年以上前に書いた氏の作品の書評を全部削除してしまいたいくらい恥ずかしいぞ。いや、その時の感想はそれはそれで今も変わらないのだが(おい)、少なくとも、ライトではない真面目な──というと語弊があるが──ミステリは、ここまで凝った且つ唸らせる謎解きを堪能できるとは。
 今回も、目次を見ると《藤村カルタ》が題材になってたり、途中から出てくる高校生の少女がイカニモというありがちなキャラだったりして、こりゃ例によって例のごとくかななどと端倪していたのだが、トンデモナイ。なめてかかってたら背負い投げを食らった。こんなところに伏線が、こんなところに動機が、えっ、この人物の行動にはこんな理由が、うわああああああ、とのけぞりっぱなしである。おまけに切ない恋愛ドラマまで絡めてくれちゃって、それがまったく邪魔になってないばかりか巧いこと謎解きに結びついたりして、クライマックスの見事さと言ったら、ああもう!
 おまけに題材自体が……いや、あまり言うと興を削ぐからこのヘンにしておくが、とにかく騙されました。妙に奇をてらったところも派手派手しさもないが、その分、落ち着いて読めていい。真っ当にして正統派のミステリだ。 (01.9.26)
《この本の詳細情報&注文画面へ》    

「ガラスの仮面」殺人事件・辻真先(白泉社)

 タイトルを見て分かるとおり、美内すずえの未完(01年10月現在では未完なのよ。っつーか、いつか終わるのか?)の名作マンガ「ガラスの仮面」をモチーフに使ったミステリである。装丁からして、花とゆめコミックスそのまんまの装丁で、おまけに表紙には美内すずえ描くところの北島マヤと姫川亜弓が載ってるんだから、こりゃもう、それだけで買う価値はあるってもんだ。
 しかし中身は、「ガラスの仮面」とはあまり関係がない。っつーか、全然関係ない(笑)。ここがちょっと残念なところではあるんだけれど、まあしょうがないか。一応、市井の劇団が小説の舞台で、そこの中心となる新進実力派女優の名前が南郷麻矢という、どっかで聞いたような名前。おまけにこの麻矢ちゃん、舞台での輝きとはうってかわって、普段は目立たないしドジだし──うん、本家「ガラスの仮面」と似てるのはここくらい。
 あとは、その劇団で起こった殺人事件にいつものポテト&スーパーが挑むという形になるのだけれど、う〜〜〜ん、できることなら、もっと遊んで欲しかったなあ。そのまんまは使えないのかもしれないけれど、せめて名前だけでも真似るとか、「ガラスの仮面」の名セリフをパロっちゃうとかさ。でないと、せっかく白泉社からあんな装丁で出して、美内すずえ本人の絵まで使った甲斐がないじゃないか。う〜ん、もったいない。 (01.10.2)     

政・官・財(おえらがた)の日本語塾・イアン・アーシー(中公文庫)

 著者はカナダ人の翻訳家。書類や文書を翻訳するのが仕事だったが、どうにも日本語の役所言葉というのは翻訳しにくい。何なんだこの摩訶不思議な日本語は。役所言葉だけではなく、政治に目を向ければ政治家の言葉は判で押したように同じだし、おまけにテレビで流れる広告の言葉の意味不明さと言ったら! いったいこれらを、どう翻訳しろというのか。もう我慢できない。翻訳家泣かせの「摩訶不思議なヘンな日本語」に仕返ししてやるう!
 ──という動機で書かれた本なのだそうだ(笑)。カナダ人と端倪するなかれ、なまじの日本人より余程日本語に詳しく、また日本語を愛してくれているのが良く分かる。と同時に、英語の国の人なので、日本の広告に氾濫する似非英語も気に掛かって仕方ないというわけ。
 本編は3章から成っている。第一章は「官僚の言葉」。テロ防止法の130文字を超える長ったらしい法律名は昨今マスコミで話題になったばかりだが、これまでも官僚は意味不明の日本語を数多く生み出して来た。「平成元年度は運動場整備、平成2年度公園、駐車場整備を2ヶ年で整備する」──誰かこの文章の意味、わかりますか? だいたい「整備」って何?
 第二章は「政治家の言葉」。公約を守れなかった時や、汚職が発覚した時、はたまた口が滑った時など、政治家は何と言うか。過去の例をふんだんにあげて笑い飛ばす。いやもう、政治家の舌禍事件をまとめて読むと、こんなに笑えるとは。
 そして第三章は「広告の言葉」。For beautiful human life という某社のコピーが英語として意味が通じないというのは有名な話だけど、それ以外にもおかしな広告言葉が出るわ出るわ。「パソコン・ワープロで、あなただけのオリジナル名刺が作れます」──そりゃ名刺はオリジナルじゃないと困るでしょう。他の人と一緒だったら名刺の意味がないもんな(笑)。
 とにかく、最初から最後まで「そうそう、そうなのよ」と笑いっぱなし。またこのカナダ人、日本語で皮肉を言うのがメチャクチャ巧いんだもんなあ。これはお薦めだよん。ニュースや国会中継を見るのが楽しくなること請け合い。 (01.10.8)
《この本の詳細情報&注文画面へ》    

警視庁草紙(上下巻)・山田風太郎(ちくま文庫)

 山田風太郎作品のベストを挙げよ、と言われたら迷うことなくコレにします。というくらい好きな話。
 時は明治初年。元号は明治と代わり、これまでの奉行に代わって警視庁が発足した。今の長官にあたる大警視は、薩摩の川路良利。配下には薩長の志士は勿論のこと、新選組の残党や会津の生き残りも。西郷隆盛は征韓論に破れて薩摩へ帰り、廃刀令が出され、仇討ちが禁止され、ちょんまげはザン切り頭になり──失業してしまったのは、奉行や同心や岡っ引きの面々。そこで、元南町奉行・駒井相模守や元同心・千羽兵四郎、元岡っ引きのかん八が、「警視庁をからかってやろう」と動き出す。元奉行と警視庁の知恵比べ。起きる事件は密室にアリバイに人間消失にコンゲーム。本格ミステリとしても秀逸なこの対決、はてさて、軍配はどちらに上がりますやら。わくわくする連作短編集。
 とにかく面白い。山風だから物語のエンターテインメント性は言うに及ばず、登場人物が実に生き生きとしていて、明治の市井の息吹が感じられるんだよね。それに、パロディと史実がこうも融合したエンターテインメントは珍しいんじゃないだろうか。とにかく、いろんなパロディが出てくる。当時の小説や事件、芝居のパロディ。何が元ネタになっているかをばらすと興を削いでしまいそうだが、何よりこの物語自体が明治維新という史実のパロディなのだ。
 パロディと言えばもう一つ、毎回登場する脇役が凄い! 例えば政治の世界なら大久保利通・井上馨、軍人なら乃木希典・東条英教、文学者なら夏目漱石・幸田露判・森鴎外、女性陣だって、唐人お吉に高橋お伝、樋口一葉、そしておそれ多くも皇女和宮まで! もっともっと、ホンのちょい役に「うわ、こんな人がこんなところに出てきたあ!」と叫んでしまうような豪華脇役陣。そして何がすごいって、それが全て絵空事──というワケでもないのだ。幼い頃の夏目漱石と樋口一葉が会話するシーンがあるのだが、これは実際にあり得た話。森鴎外の初恋話は、彼の作品をそのままパロってるし、高橋お伝の死にざまなんて、そこらの逸話なんて吹っ飛ぶくらいの迫力だ。そして、警視庁を相手に知恵比べをした元同心・千羽兵四郎は最後に──笑わせ、のけぞらせ、手に汗握り、そして最後にはしんみりさせる。山風節、ここに極まれり!
 もう一度言おう。山田風太郎作品のベストを挙げよ、と言われたら迷うことなくコレにします。 (01.10.10) 《
上巻の詳細情報&注文画面へ》・《下巻の詳細情報&注文画面へ》   

忘れ蝶のメモリー・新井千裕(講談社文庫)

 記憶を一日に二日分ずつ記憶蝶に食べられてしまう彼女は、二十歳の誕生日で全ての記憶を失ってしまう。それは明日! 何とか彼女を助けたくて、僕は謎の少年とともに帆立貝転送機に乗って記憶の迷宮へと旅立ったのだが……。
 何とも不思議な味わいのファンタジーである。帆立貝転送機によって記憶の中に入り込んだ冒険譚と、十年後、再度記憶を失ってしまった彼女と僕の再会の物語が交互に描かれる。冒険譚の方は「不思議の国のアリス」を思わせるようなワンダーランド。忘れ蝶を捜して、ギョウザの国に迷い込んだり、文字と記号の国でカッコに食べられそうになったり。現実の世界では、彼女の記憶を取り戻すために滞在した田舎のペンションで、カラオケ大会に出るハメになったり町長のリコール運動に巻き込まれたり。そして、その冒険譚と現実が交叉する時、そこに新たな像が浮かび上がるのである。
 なんだか、読んでいて気持ちのいい筆運びとでも言おうか。シュールで現実感の乏しい世界を描きながらも、それでも読者の記憶の隅っこを刺激する何かがある。彼女のために懸命になっているのに、でもどこかすれ違っていくやりきれなさ。彼女の記憶の迷宮で右往左往している筈だったのに、それがいつの間にか主客転倒していく陶酔感。不思議感覚にどっぷりと浸かりながらも、でも何故か、とてつもないリアリティを持って「僕」の思考が読者の前に現れるのである。
 これは、童話だ。現代の「不思議の国のアリス」だ。蝶を追いかける僕は、兎を追いかけるアリスなのである。その「僕」を追いかけるのも、また一興。 (01.10.15)       

あ・うん・向田邦子(新潮文庫)

 昭和十年の東京。転勤先の松山で数年を過ごした水田仙吉とその妻タミ、娘のさと子の三人家族は、久しぶりに東京へ戻ってきた。栄転である。東京での新居は、仙吉の親友で金持ちの門倉修三が準備していた。家族同様に付き合う、水田家と門倉家。しかし、人々の心の底には……。
 向田邦子の代表作にして、昭和の文学を代表する傑作である。ミステリではないのでネタを割ってしまうが、門倉は心の底で水田の妻・タミに思いを寄せている。そしてタミもまた、心の奥では門倉を慕っているのだ。──と書くと、なぁんだ不倫の話かよ、と言われるかもしれない。しかし違う。一歩誤れば不倫になってしまうギリギリのところで、二人は踏みとどまるのだ。家族のために。友人のために。タミと門倉にとって、家族や友情は、恋愛よりも更に《守らねばならない大切なもの》だから。
 切ないことに、他の誰もが──タミの夫も娘も、門倉の妻も二号も、タミと門倉の思いに気づいている。気づいていながら、気づかないふりをしている。そして、親友として両家は付き合っていくのだ。
 そこに、どろどろした男女の絡み合いは無い。あるのは、切ないまでの愛と思いやりだ。酔ったふりをして仙吉は門倉に「俺が死んだらコイツを頼む」と言う。真意は分かっていながらも、門倉は敢えて表面の意味だけを汲んだふりをして「じゃあ、俺が先に死んだら、子供を頼む」と返す。また、他人の妻に手を出した男を前にして門倉が思わず「思いが爆発したんだ、一生に一度くらいいいじゃないか」と本音を漏らした時、タミが「私はいやだわ、夫を裏切っちゃいけないわ」と凛として宣言する。セリフの一つ一つに込められた裏の思いを、読者も、そして他の家族も皆、感じとりならば、二つの家族は弥次郎兵衛を続けるのだ。それは恋愛小説であると同時に、友情物語であり、反戦小説でもある。否、恋愛だの友情だの家族だのより、悲しいまでに美しい人間の心、自らを律するという人間の強さを描いた物語なのだ。
 とにかく、巧い。とっさのセリフや小道具が実に効いている。召集令状の来た恋人を追ってさと子が家を飛び出した時、そして一晩帰らなかった時、タミは悔やむのだ。恋愛を許さなかったことを悔やむのではない。ツギの当たった古いスカートでお嫁に出してしまった、どうして晴れ着を着せて出してやらなかったのか、と悔やむのである。
 ああもう、胸に残るシーンを書いていたらキリがない。とにかく読め。これを読まずにいるのは一生の損だぞ。 (01.10.18)  
《この本の詳細情報&注文画面へ》    


書評リストに戻る