じゃじゃ本ならし


フィッシュストーリー・伊坂幸太郎(新潮社)

 4編の短編が収録されているが、繋がりは無いと言えば無いし、あると言えばある。二つの短編に共通して出ている人物がいる、というだけではなくて──これまでの伊坂作品を読んでいる人には自明だけど、4編全部に、過去の伊坂作品の登場人物が出て来てるのよね。これまでも既存の作品とどこかで繋がるという趣向を混ぜてきた著者だけに頷ける趣向。もちろんそんなことは知らなくても読めるし、成立する話ばかりではあるけれど「つか、こいつ何?」と感じた人は、それぞれの元の作品を探して読んでみるのも面白いのでは。
 っていうかさ、読んでる最中の感想がその物語がどうこうより「あ、この人!」「うわあ、この人たちって!」「他にいないか誰かいないか」というところにばっかり行ってしまったのは、果たして良かったのか悪かったのか。そういうことをまったく知らずに、これが伊坂作品初体験って人はどういう感想を持つのかな。〈知らなかった頃には戻れない〉ってのはこういうことか。
 【動物園のエンジン】夜中の動物園で、オオカミの檻の前に横たわる男。消えたシンリンオオカミはどこに? おお、あの人のお父さんが! おお、あの市長殺人事件の話が! 伊藤さんはもしかして最多出演?
 【サクリファイス】人を探して宮城と山形の県境近くまでやってきた黒澤。その村には不思議な風習が残っていて──。ミステリとしても面白いのだけれど、それより「わー、黒澤だー」というのが先に立っちゃうってのは、いいんだかどうなんだか。
 【フィッシュストーリー】一人の行動が、それと意図せずまったく別のところで別の人に影響を与える──こういう話はとても好きだけれど、これがスゴいのは実際によくある個人レベルの影響ではなくホントに「世界を救う」というところまで話が行くこと。この短編集の中ではベスト。この広がりにゾクゾクして、そしてジンと滲みて来る。ところで飛行機にあの夫婦が乗ってるぞ(嬉)。
 【ポテチ】プロ野球選手の自宅に空き巣に入った主人公。そこに電話がかかって来て──。ああ、このラストの奇跡はステキ!そうそう、タダシは別の作品で引力の法則に気づいてたよなあ。   (07.10.10)
《この本の詳細情報&注文画面へ》


明治時代の人生相談 一〇〇年前の日本人は何を悩んでいたか・山田邦紀(日本文芸社)

 うわははははは、これサイコー!
 内容は極めてシンプルで、明治時代、新聞や雑誌に掲載された読者からの人生相談投稿と記者からの解答を集めたもの。これがもうアンタ、めちゃくちゃ面白いのよ。時代が変わって分かりにくい言葉などは解説がついているので大丈夫。
 相談内容は千差万別なんだけど、大きく二つに分けられる。「明治の人って、こんなことに悩んでたのか!」と驚くようなものと、「ああ、明治も今も変わらないなあ」と思うようなもの。例えば前者だと、「袂に艶書を入れられた、どうしよう」だの「大事な飼い犬が近所の子供に食べられた」(!)だの。膝を打ったのは「年寄りが使う時刻の言い方が分からない」というもの。明治後年には、もう24時間法がすっかり定着して、「丑の刻」「あけ六つ」などの昔の時刻表現が若者に通じなくなってたんだなあ。
 後者は「子供が活動(映画)ばかり見ているが悪影響はないか」──これはテレビとかアニメとかゲームとかに置き換えると、そのまんま今も同じ。「女と思っていた文通相手が男だった」てのは、ネット時代の今の方がありそうだし、「深夜まで帰宅しない不良娘を叱って欲しい」「日露戦争の年金が来ない」てのも今に通じる。女(男)に騙されたなんてえ相談もたくさんある。要は、科学や生活習慣は変わるが、人が悩むことにさほどの変化は無いってことだ。
 質問もだが、答えも振るってるぞ。「日曜に学校に行っている長男が、三太九郎が土産を持って来ると聞かされて来たが、三太九郎などという者は知らない。知らない人が土産をくれるはずもない。こんな偽りを教える先生のもとへはやりたくない」というもの。これ、どういうことか分かる? 記者が「いずれかの教会の日曜学校に行かれているのでせう」「三太九郎とおっしゃるのはサンタクロースのことで、クリスマスといふて基督教を伝えた云々」と答えてるのを見て膝を打ったわよ。
 すごいばかりではなく笑っちゃうのも。何より笑った問答はこれだ。
 問「イモリの黒焼きをのめば果たして俗説の如く夫婦の情愛を温めるものに候や」
 答「決してかかる道理なし。かつすべて黒焼きは炭なり、炭をのんで効あるものならば何ぞイモリを焼くの必要あらんや」
 うわははは、その通り! 回答者、ナイス!   (07.10.13)
《この本の詳細情報&注文画面へ》


生協の白石さん・白石昌則/東京農工大学の学生の皆さん(講談社)

 東京農工大学の生協にある「ひとことカード」。学生が生協への要望や意見などを書いて箱に入れると、生協職員が返事を書いて掲示板に貼っておくというもの。どこにでもあるこのシステムだが、内容は「こんな商品を扱って欲しい」という要望だったり、職員の態度へのクレームだったり、というのが普通だろう。けれど東京農工大学はちょっと違う。そんな普通の「ひとこと」に、生協職員の白石さんが返す「ひとこと」は、普通の業務連絡を超えたおかしみがあった。それに気づいた学生が、ややふざけた「ひとこと」を投稿した。白石さんからの返事が張り出された。めちゃくちゃ面白かった。──ネットで紹介され、一気に白石さんは人気者になり、そしてこんな本になってしまった。
 いや、確かに面白い。っていうか和む。
 「バストアップ用品をおいて下さい」という女子学生からのリクエスト。「生協で取扱している商品に該当するモノはございませんでした」と、ここまでは普通だ。しかし続きがある。「胸囲の増加を図るという点で『プロテイン』ならばお取り寄せ可能なのですが、バストアップというよりビルドアップになってしまいますね」という一言がつくのだ。要らないだろうそんな提案、と思うのだが、なんとも楽しいじゃないか。
 おや、と思ったのがコレ。「単位が欲しいです」という、学生なら誰でも考えつくような小ネタ投稿に対し、普通なら黙殺して終わるところを、「そうですか、単位、欲しいですか。私は単車が欲しいです。お互い、頑張りましょう!」と返す。ここで注目したいのは「単位売って」という、似た内容の投稿があるということだ。そちらに対し白石さんは、単位とは金銭で売買されるものではなく、当店が単位の売買を始めたら先生方から非難を浴びる云々という受け答えをしている。何が違うかというと、一方は「単位売って」という生協への取扱商品リクエストになっているのに対し、もう一方の「単位が欲しいです」は独り言なのだ。内容は同じなのに、こちらへ向けられた要望と、ただの独り言で対応が変わる次第。これは白石さんが素晴らしい言語センスを持っている証拠だ。
 でも一番すごいのは、こんな白石さんをネットで扱いながらも、学生たちが白石さんの本名もプロフィールも顔写真も公表しなかったということ。当たり前のことだが、ブームになれば調子に乗ったバカがひとりふたり出て来るものだ。それがなかったということは、学生さんたちが素晴らしいと同時に、それだけ白石さんの「ひとことカード」が学生さんたちに慕われてるということなんだろう。本にしてしまうと単なる一覧になってしまって、現場の雰囲気がなくなるのがもったいない。これは現場で味わいたいな。   (07.10.13)
《この本の詳細情報&注文画面へ》


パズルレディの名推理・パーネル・ホール(ハヤカワ文庫)

 墓地で若い女性の他殺死体が発見された。死体のポケットから見つけられた紙片には、クロスワードパズルのヒントと思しきメモが書かれていた。おりしも町内には、「パズルレディ」の筆名で新聞にクロスワードパズルの連載をしているコーラが住んでいる。警察のハーパー署長は専門家の意見を聞きたくて、コーラが姪のシェリーと住む家にやってきた。慌てたのはコーラとシェリー。なぜならこの二人にはある秘密があって──。
 クロスワードつきのコージーミステリってことで、パズル好きにはたまらないのだが、本文を読まないと鍵が解けないってあたりが考えてある。原書では英語なのでわざわざ日本語版を作ったそうだが、英語版も収録して欲しかったな。
 さて内容。コーラおばあちゃんの自由奔放ぶりと言ったら、あたしが同居してる姪なら三日でブチ切れそうなくらいだけど、これが「おばあちゃんだから」という理由だけで許せてしまえるのは
「ピーナッツバター殺人事件」の感想に書いたのと同じ。やってる行動は無謀そのものなのに、どこか安心してみてられるんだよなあ。その奔放さの良さが見えるのが、物事を真面目につきつめて考えてしまうシェリーとの会話シーンだ。コーラおばあちゃんは確かにヒヤヒヤさせられっぱなしなんだけど、「まあ、いいじゃないか」「大丈夫だよ」と言われると「そうだよな、眉間にしわ寄せて悪いことばっか考えててもしょうがないか」という気になるのよ。
 シェリーと新聞記者アーロンのロマンスは少々苛々させられる(こんな突っ慳貪で嫌みな会話からよくもロマンスが生まれるもんだ)し、アーロンの考え無しの記事にはマジで腹が立ったが、そういうのをひとつずつ乗り越えて進んで行く二人の様子はなかなか。あとは町の人たちの描写がもっと増えるといいな。コーラの飲み仲間もバーのマスターも図書館の少年もいい味出してるから、もっと読みたいぞ。
 謎解きで一番印象深いのは、最初のメモの謎が解けたとき。推理で解く訳ではなく(だって推理が必要なのはそこから後のことだもんね)聞き込みの途中でわかるんだけど「そんなことかよ!」と思わず笑ってしまった。でも言われてみれば、確かにそのまんまなんだよなあ。ダイイングメッセージの深読みもしくは空振りモノとしては実に秀逸。深読み/空振りが新たな連続事件に繋がるという点から見ても、この構成はなかなかだぞ。クライマックスの盛り上がりはとってもサスペンスフルだし、さすがホール。 (07.10.12) 《この本の詳細情報&注文画面へ》


パズルレディと赤いニシン・パーネル・ホール(ハヤカワ文庫)

 町一番の富豪、エマが死んだ。遺産を貰うのは自分だとばかりに親戚が集まる。しかしそこで後悔された遺言状は、パズルを解いた者に全財産を譲るという摩訶不思議なものだった。おまけにその審判を、新聞にクロスワードパズルの連載を持っているパズル・レディのコーラに頼むと書いてあったからさあたいへん。加えてその途中で殺人が起き、コーラはパズルと殺人の両方を解くハメに……。朝からブラッディマリーをあおるようなパワフルで無軌道なおばあちゃんコーラと、前夫のDVの傷がいまだに癒えない姪のシェリーが力を合わせて事件にあたるパズル・レディ・シリーズ第2弾。
 さすがにストーリーテリングが巧くテンポもいいので、ぐいぐい読めるぞ。ちょっとずつ解かれるクロスワードパズル、1ステージごとにキーワードが出て来て次に進めるという、その展開も巧い。そこにエキセントリックな親戚たちがドタバタ動き回って、実に楽しく読める。やっぱ巧いね。
 
前作よりもパズルそのものが謎解きに関わって来るので、英語のパズルを扱うのは翻訳家泣かせであったろう。けれど言葉の壁などまったく感じず「おお、そう考えるのか、なるほどねえ」と感心しながら楽しく読めたよ。翻訳家さん、グッジョブ! でもどうせなら、パズルのすべてを(鍵も含めて)載せて欲しかったなあ。その方が、一緒に解く楽しみを味わえたと思うのだが。原作にはあったのかしら? これだと読者はシェリーの考えをそのまま受け入れるしかないではないか。もうちょっと能動的に参加したいぞ。終盤の展開が意外で良く出来ていただけに、パズル部分を自分で考えることができなかったのが、そりゃもうあんた焦れったくて焦れったくて。ただ、蓋を開けてみれば「そんな家庭の事情、知るかよ!」とちょっと思ったけどね。
 あと、ちょっと首を傾げたのは、この邦題。原題は「Last Puzzle & Testament」(最後のパズルと遺書)なんだけど、「パズルレディと赤いニシン」って──まあ、ミステリマニアにはもちろんこの邦題の意味はよく分かるのだけれど、それはネタバレではないのか。まあ、どのあたりがレッド・ヘリングなのかを考えるのも楽しいから、いいのかな。
 とまれ、楽しいことは間違いないこのシリーズ、本作が03年の発行なので、ちょっと続刊が止まっている感があるぞ。アーロンとシェリーがどうなったのか気になるじゃないか。スタンリー・ヘイスティングズの方も05年6月以降出てないし、どうした早川書房? (07.10.14) 《この本の詳細情報&注文画面へ》


ピーチコブラーは嘘をつく・パーネル・ホール(ハヤカワ文庫)

 ハンナが経営する〈クッキー・ジャ−〉は未曾有の大ピンチ。向かいに新しいベーカリーが出来て、客をごっそりとられてしまったのだ。そのベーカリーは、ハンナの恋敵であるショーナ・リーが潤沢な資金をもとに採算度外視でハンナに嫌がらせをするためだけに出店したもので、おかげでハンナのお店はこのままでは倒産しちゃう! ところがそんなときに事件が起きて──。ハンナ・スウェンセン・シリーズ第7弾。
 コージーを読んでいて「いいなあ」と思うのは、どんなにピンチでもユーモアを忘れないところ。ガラガラの店内で、賑わうライバル店を見ながらハンナが共同経営者のリサと話し合う場面にそれが現れている。家族友人がこぞってライバル店に「偵察のため」に出かけるくだりなんて、大問題なのに思わす吹き出してしまった。ハンナはこっそり借金の算段をする始末で、つまりそれほど事態は深刻なのに、全体を包む空気はとてもユーモラスなのね。それはただ「軽く書いているだけ」では決してなく、「暗くなるなよ、下を向くなよ、笑っていこうぜ!」という、コージーというジャンルそのものが持っているメッセージでもあるのさ。そしてちゃんと最後には心の底から笑顔になれるようなエンディングが待っている、この安心感と心強さ。
 ミステリとしても(このシリーズにしては)結構がしっかりしてるぞ。「うわ、これが伏線であったか!」とホゾを噛む思いもさせてもらったし、「おお、このパターンか!」と膝を打ったし。難を言えばシリーズ読者でないと背景がちょっと分かりにくいきらいはあるが、まあ、これを読んでる人はたいていシリーズ通して読んでるだろうしね。そしてある意味、ミステリ部分より売りになってるハンナとマイクとノーマンの三角関係。今回はマイクと関わりのあるショーナ・リー姉妹が絡んでいるので、ハンナは穏やかではないのだが、そのヤキモキが謎解きにリンクして行く様が見事よ。シリーズ中、設定がミステリに最も活かされてる例だ。
 つか、マイク! 頭悪いんじゃないのか。その程度の洞察力でよくもまぁ警察なんぞやってられるもんだ、と呆れちゃうよ。あたしはノーマン派なので、これでハンナがマイクに見切りを付けるのならそれで良しってなもんなんだけど、それでもこのマイクの「わかってなさっぷり」には腹が立つ。
 いや、待て。どうもここに来て著者がマイクの評価を下げるような書き方を敢えてしてるように思えてきたぞ。見た目とキスのテクニック以外にマイクの長所って出て来ないもん。なのにハンナが迷うってことは、まさかノーマンの「ハゲ」と「デブ」は、あのステキな性格をも凌駕するほど酷いのか……? (07.10.15)
《この本の詳細情報&注文画面へ》


気分はフルハウス・ジャネット・イヴァノヴィッチ(扶桑社ミステリー)

 ビリーはバツイチ、二人の子持ちの38歳。子供たちが夏休みに元夫のもとへ出かけている間、ポロ教室にトライした。そこで出会ったのは、ポロ教室の主催者であり新聞社を経営する大富豪にしてイケメンのニックだった。互いに惹かれ合いながらも環境の違いが二人の恋路をすんなりとは行かせない。おまけに、ニックの従妹のディーディーは転がり込むし、蜘蛛は大量発生するし、爆破事件まで起こってそりゃもう大騒ぎ。果たして二人にハッピーエンドは来るのか?
 うわはははは! お馴染み
ステファニー・プラム・シリーズの著者イヴァノヴィッチが送るロマンス小説。もともとイヴァノヴィッチはロマンス小説作家で、これはその当時に書かれたものを改稿したのだそうだが、いやもう、ステファニー・プラム・シリーズで見せた怒濤の勢い・超個性的な脇役・ニヤリとしちゃうユーモア・お下劣スレスレのお色気・手に汗握るサスペンスが、そっくりそのままロマンス小説に移植されてるよ! いや逆か。イヴァノヴィッチのそういうテイストがステファニー・プラム・シリーズに活かされてるのか。とまれ、そういう次第なので、プラムは好きだけどロマンス小説は……と二の足踏んでる人は、心配するなそのままGOだ!
 地道な主婦のビリーと、欲しいものは何でも手に入る富豪で女たらしのニック。あまりに急速に惹かれ合ってしまったが故の、お互いの戸惑いや葛藤がコミカルな中にもしっかり描かれていて(このあたり、さすがロマンス作家!)、ドタバタ小説なのにときにはホロっと、ときにはチクッと、読者のロマンス成分をしっかり刺戟してくれる。何より、心の揺れは多分にあっても、この二人の関係がとても暖かいものだというのが伝わってきて、そこが読み心地の良さを誘っているのよ。恋愛って刺戟的なだけじゃダメで、やっぱり暖かくなくっちゃあね。
 その二人のロマンスを彩るのは、ディーディー&フランキー(なんと人気プロレスラーだ)の個性派にして気のいいカップル、ディーディーの弟にして天才少年のマックス。個性的なのに気がいい、天才なのに子供っぽい、そういう落差を持ったキャラクががもう抜群に魅力的。何度大笑いしたことか。
 それに忘れちゃならないのはステファニー・プラム・シリーズに匹敵するミステリ仕立てになってること。むしろプラムの方はジャンルとしては最初からミステリに入る分「ミステリ的結構」に期待して物足りなさを覚えることがあるのに対し、こっちはハナからロマンス小説として読んでるからちょっとしたミステリ趣向が出て来ると、それだけで「おっ」と思っちゃうってえのもあるんだけど、でもクライマックスなんて明らかにサスペンスと謎解きで出来てるぞ。そういう意味でも、ミステリ好きにもお勧めだ。  (07.10.14) 《この本の詳細情報&注文画面へ》


41歳からの哲学・池田晶子(新潮社)

 今年(07年)2月に47歳の若さで亡くなった哲学者、池田晶子さんの雑誌連載「死に方上手」の単行本だ。雑誌で読んだものも多いが、いざご本人が亡くなってから(癌だったそうだ)改めて「私はもともと命根性が薄い。生きても死んでも大差ないと思っている」と何度も書かれているのを読むと、なんともいえない気分になる。胸が痛いような、その一方でどこか安心するような、そんなヘンな気持ち。
 書かれていることは、どこからも否定しようがないほど「当たり前のこと」ばかりだ。「人を殺してはいけない」のは、どうしてか。「地震や戦争や死を恐れる」のはどうしてか。「自殺はいけない」のは、どうしてか。特に心に刺さるのは自爆テロのくだりである。「死んで何になる」とは巷間よく口にされる言葉だが、「死んで何になる」をここまではっきりと分かりやすい言葉で説いた例を他に知らない。
 しかし、気をつけねばならないことがある。ここにあるのは、それらの問いに対する唯一の答ではない、ということだ。あくまで考え方の指針である。なるほど池田さんなりの答が書かれてはいるけれど、それを疑いなく鵜呑みにすることこそ、読者は躊躇せねばならない。なぜなら、当たり前のことを当たり前として鵜呑みにせず、突き詰めて考えねばならないというのが池田さんの主旨に他ならないから。
 死んだことのある人はいないのだから、死んだらどうなると憂えても絶対にわからないし、死にたくないと思っていても人間は100%死ぬのだ、と。どうせ必ず死ぬのだから、死んだらどうしようとか、こんな死に方はしたくないとか、憂えてもしょうがないのだ、と。これまた実に当たり前だが、当たり前だからこそよく噛み締めねばならない。「憂えてもしょうがない」とは「だから、なにもしない」では決してない。「憂える」のではなく「考える」ことが必要なのだ、と何度も何度も繰り返し説いている。では何を考えるのか。何をどう考えて「必ず死ぬ」までの時間を全うするのか、それは読者に委ねられるのだ。哲学は答を示してはくれない。考えるという行為そのものこそ哲学なのである。
 なるほど、死んだのちにその人の思考がどうなるのかは、誰にもわからない。肉体同様、聞く事も感じることも何もできなくなってしまうのかもしれない。それでも、池田さんは情として愛犬のお骨に話しかけていた人である。父親がお墓を買うとき「お参りには来るから、寂しくないって」と言った人である。だったら、読者の気持ちも分かって貰えるだろう。池田さんが亡くなって、確かにその身はなくなってしまったけれど、「憂えるのではなく考える、という指針を示してくださって、ありがとうございました」と言わずにはいられない読者の気持ちを。  (07.10.19)  
《この本の詳細情報&注文画面へ》


あやめ横丁の人々・宇江佐真理(講談社文庫)

 婿入りの祝言の当日に、花嫁を奪われた紀藤慎之介。武士の面目が立たぬとばかりに、花嫁を奪った男を切り捨てた。それを気に病んだ花嫁は自殺し、慎之介を恨んだ婚家は刺客を放って彼を亡き者にしようとする。ここなら安全と慎之介が匿われたのはあやめ横丁という長屋。一見普通の長屋に思えたが、どうやら住人は皆ワケアリのようで──。
 うーん、読ませるなぁ。世間知らずの武家の三男坊が市井の長屋で暮らし町人とふれあううちに「世事を学習」する話だとばかり思っていたのだが、ところがどっこい、そんなありがちな話ではなかったよ。なんせ一見普通の長屋が、お茶屋も一膳飯屋も貸本屋も、そして子供までが、慎之助を上回る「ワケアリ」なんだもの。その「ワケ」がひとつずつ明らかになる度に、やるせない思いがどんどん増していく。どうしようもない過去を持った人々が、それでもその日その日を笑いながら、あるいは黙々と、暮らしていく。誰にだって事情はあるのよ、辛いのは自分だけじゃないのよ、でもみんなそれを飲み込んで生きてるんだよ。
 特に印象的だったのは、クライマックスの大立ち回りのあとで伊呂波がこの長屋の住人を評して言った一言だ。これで大団円と気持ちがホクホクしているときに、いきなり冷たい水をぶっかけられた気持ちにさせられた。けれどそれがぜんぜん嫌じゃない。横丁に住む人々の個々の事情がメインだった物語が、ここへ来て枠をひとつ広げたのが分かったからだ。「さあ、著者がホントにやりたいのはここからだ」というのが分かったからだ。自分の持ち場で生きて行くということ。人間には「分」というものがあるということ。しんみりしたり笑ったりスカっとしたりという「エンターテインメント」を満喫したあとで、著者は読者にいきなり現実をつきつける。
 そして最終章が。ちょっと驚くような展開に「えっ」と声が出た。宇江佐真理なら、いくらでもハッピーエンドにできたろう。身分違いの恋なんて、いくらでも成就のさせようがあったろう。それを、宇江佐真理は敢えて拒んだ。結果、悲しい話になった。けれど、悲しいのに清々しいのだ。「どうしてあのとき」と歯痒い思いに苛まれながらも、けれどこれはまぎれも無いハッピーエンドのようにも思えるのだ。
 それはおそらく、人生とは続いて行くものであるということを、登場人物が教えてくれるから。確かにある部分だけみれば、こんな悲しい話はない。けれど悲しむべきところを悲しんだあとは、よりよい日々を送れるよう個々が前を向いていくしかないのだ。それを慎之助が、或いは他の登場人物たちが見せてくれる。だから悲しいのに清々しい。やるせないのに元気が出る。宇江佐真理の、市井の人々への愛情が十全に詰まった一作だ。    (07.10.29)
《詳細情報&注文画面へ》 


読み違え源氏物語・清水義範(文藝春秋)

 清水義範の本領発揮。
 源氏物語を清水義範ふうにアレンジして仕立てるという趣向で、原本と比べつつ「うわあ、こう来るかあ」と感心しちゃう。技とかアイディアとかだけじゃなくて、「そういうふうに読み解くのか」という解釈の妙が大きいのよ。と同時に、原本を別物にアレンジすることによってまったく別の風刺にもなっているという次第。ただ、全体的にちょっと浅い感じはするなあ。史水義範ならもっと凝ったことができるんじゃないか、と思われてならないのだが。
 例えば、もののけに襲われて怪死を遂げる夕霧の段を、「実は夕霧は殺されていなかった」とミステリ風に謎解きしてみせる【夕霧殺人事件】は、ミステリマニアなら思わずニヤニヤしちゃう趣向。ただこの段の解釈は、高田崇史の作品に出て来た解釈にいたく感心したので、それと比べちゃうとどうしても物足りないのは否めない。また、源氏を現代的な解釈でミステリ仕立てにしてみせるのは柴田よしきの
「小袖日記」という佳作もある(もちろん「夕霧」の推理も出て来る)し。それらと比較すると、やはりミステリ的にはありきたりで〈弱い〉のよねえ。
 【かの御方の日記】は、光源氏の本妻・葵の上の日記という体裁。葵の上の身に起こった出来事を知っていると、ぞわっとする箇所多数。これはオリジナルを知っていないとちょっと意味不明かもね。
 【プライド】は六条御息所を現代の女優に置き換えて描く。【愛の魔窟】は朧月夜の君、【ローズバット】は据摘花の姫君の翻案。この3編は特に新解釈を見せるでもなく、別の舞台で描くとこうなるよ、という形式。うーん、ここいらがちょっともったいない。
 面白いな、と思ったのは源典待を語り手にした【うぬぼれ老女】だ。オリジナルとは視点を変えて、年をとった源典待の「後日談」として語らせるというのは、なるほど、と思った。またこの源典待がなんともオカシクてにやりとしちゃうぞ。藤壷は単におバカな姫君だったとする【最も愚かで幸せな后の話】、サラリーマンがムラサキという植物を大事に育てる【ムラサキ】は、それぞれの解釈が楽しい。
 とまれ、オリジナル源氏物語が如何に「いじりたくなる」物語かというのが重々伝わってくる。オリジナルを読みたくなったよ。    (07.10.31)《詳細情報&注文画面へ》 


書評リストに戻る