史上最悪のクリスマスクッキー交換会レスリー・メイヤー・創元推理文庫

 思えばシリーズ1作目「メールオーダーはできません」(なまもの書評はこちら)もクリスマス前後の話だった。あれを読んだときにも思ったが、クリスマスと正月の違いはあれど、年末の主婦の忙しさはアメリカも日本も同じなのだなあ。ってことでシリーズ第6作。

 夫のビルとの間に四人の子供を持つルーシー。今は町の新聞社で非常勤の仕事を持っている。ただし目下の関心事はクリスマス。恒例のクッキー交換会を今年はルーシーの家でやることになったのだ。ところがその交換会が最悪。主婦同士でいがみ合いは起こるし、自分の離婚の話しかしない人もいるしで、もうさんざん。くたくたになったルーシーだったが、その翌日、ある女性が殺されていることが分かって──。

 殺人事件が起きるまでちょっと長いのだが、いやもう飽きない飽きない。狭いコミュニティで主婦が集まり、おとなしくガールズトークに花を咲かせていれば良いものを、それぞれが抱えている家庭の事情のせいで一触即発になる、その様子がおかしくておかしくて。
 男性読者がこれを読むと、おもしろおかしくキャラクタをデフォルメしてるように見えるかもしれないが、いやあ、いるよいるよこういう人。言わずもがなのことを言わずにはいられない人とかさ、自分の価値観に一寸の疑問も持たない人とかさ、とにかく他人と比べて優位に立ちたがる人とかさ。
 絶妙なのは、メンバーの距離感だ。これが初対面ならそういう人たちも自分を押さえてつつがなく交流することができるだろう。逆にもっと親しければ、腹を割った話ができる。そのどちらかなら大きなトラブルにはならない。けれどコミュニティのつきあいって、その中間なんだよね。他人行儀である必要はないけど、踏み込む度合いが測れず、結果としてぎくしゃくしてしまう。巧いなあ。

 謎解きはいつものように「もちょっと捻ってくれても良いのにね」と思わないでもないが、殺人事件のみならず、町の高校に蔓延するドラッグ問題や町が抱えるボランティア消防士の問題などなど、すべてが絡み合って一つ処に収束していく様にはカタルシスがある。田舎町のいいところだけでなく、悪いところもきっちり出ていて、単なる殺人事件の犯人探しだけでないところがいい。ミステリマニアには受けないだろうけど、「生活とコミュニティ」に重きをおくタイプのコージー好きにはお薦めだ。

 おや、と思った箇所があった。例によって主婦探偵としてルーシーがいろいろかぎ回るわけだけど、今回はちょっと控えめ。「あの穿鑿好きのルーシーがどうしたの」と知り合いに問われたときの、彼女自身、どうして今回はあまり嗅ぎ回らないのかを考え、あることに気付いたシーンが印象的。

 
このところ、自分で真実を突きとめようとするよりむしろ、腑に落ちない事実から目をそむけることに多くのエネルギーを使っている気がした。(p184)

 どきっとした。私は元来、好奇心だけで事件に首を突っ込む素人探偵は好きじゃないんだが、こういうふうに言われると視点が変わる。以前は腑に落ちない事実があればうずうずして飛び出して行ってたルーシーが、今はそれから目をそむけているわけだ。この変化は何なのか。
 これはルーシーだけの、あるいは探偵趣味だけの話ではない。子どもが成長して難しい年頃になって、同世代の子を持つ親同士だと無邪気な友達付き合いもできなくて、仕事もあって、家事にも追われて──そんな気ぜわしさの中で、自分らしさを忘れてはいないか、と。流されるままで、目の前のことで手一杯で、嫌な話は無意識のうちに見ないようにしてるんじゃないか、と。思わず我が身を振り返った。

 こういうところがドメスティック・コージーのいいところだ。読者が等身大の登場人物にそのまま感情移入できる。良くも悪くもロールモデルとして自己投影できる。数あるドメスティックコージーの中でも、そういう点ではこのシリーズはピカイチだろう。

長い廊下がある家有栖川有栖・光文社

 火村シリーズの短編集。

【長い廊下がある家】
 道に迷った青年がたどり着いたのは、幽霊が出ると評判で雑誌のクルーが取材に来ていた廃屋だった。その地下道で死体が見つかる。けれどそこは密室のはずで──。
 空間認知力が激しく劣っているので、脳内でいろんな図面がぐるんぐるんしている。いまだにちゃんと分かったかどうか自信がない。が、面倒なはずの設定でもくいくい読ませてしまうのがリーダビリティの高さだよなあ。

【雪と金婚式】
 雪の日に起きた殺人事件。ある事に気付いた関係者が、それを警察に届ける直前に事故で記憶を失ってしまう。彼はいったい何に気付いたのか──?
 まずこの設定が魅力的! 事件そのものじゃなくて、何に気付いたかを探るっていうのがいいなあ。そしてこの解決のロマンティックなことと言ったら。

【天空の眼】
 心霊写真に怯える女子学生。しかしその背後にあったものは──。
 トリックそのものより、なぜ心霊写真だなどという話になったのか、そちらの方に膝を打った。あ、トリックがダメってんじゃないのよ。あたしは物理的なトリックには惹かれないクチなのでそちらの印象が残りにくいというだけの話です。でもそういう読者であっても、トリックの萌えなさ加減を補ってあまりある動機、そして動機に気付く過程、そういうあたりでちゃんと楽しめる。

【ロジカル・デスゲーム】
 火村だけの物語。過去に起きた事件について、父が話したいと言っている──そんな申し出を受けてとある人物の家に向かった火村だったが、そこで彼はある賭けをつきつけられる。死ぬか生きるか、確率の問題。火村が〈ロジカルに〉考えて出した答とは?
 本作品集の中でイチオシ。これの何に感心したって、確率の問題として解くことは可能なのよ。中でも解説されてるけど、この賭けはそのスジではけっこう有名な話(何年か前になまもの日記でも取り上げたよね)で、自分が助かる確率を大きく上げる方法がある。けれど。その方法を知っているからと言って、事件が解決されるわけではないってことに注意したい。賭けに勝つことが目的ではなく、事件を解決することが目的なんだから。
 でもそれは、ともすれば本格ミステリではないがしろにされがちな部分でもあるんだよね。論理的にWHOやHOWを突き詰めるのが本格ミステリなので、「論理はさておき皆でハッピーになろうぜ」みたいなケースは無視されちゃうことが、ままあるのだ。もちろんそれはそれで理解できる趣向だけど、まあ、なんつーの? オトナの解決っつーの? そういうのが要求される場って、断固として存在するじゃん、ねえ?
 本編はそのひとつの形。「オトナの解決」を「ロジカルに」導き出している。もちろんこれも論理ゲームの一種ではあるけれど、勝負に勝つための論理ではなく、解決させる手段としての論理であるところに強く感じ入った次第。

みんなのふこう若竹七海・ポプラ社

 わぁい、葉崎シリーズだあ!

 あ、葉崎シリーズってのは、若竹さんが葉崎市という架空の市を舞台に書いてるコージーミステリのシリーズ。ただシリーズと言っても、主人公はそのときどきで違うし、物語としてもすべて独立してて、ただぜんぶひとつの町の出来事なんだよという、ゆるい縛りなのね。シリーズキャラクタと呼べるほどの人はいないんだけど、会社だの建物だの店だの行事だのは共通してるわけだ。

 でもって今回は地元のコミュニティFMである葉崎FMに届いたメールから話が始まる。自分の悲惨な体験を語る人気コーナー「みんなのふこう」に、バイト先でしりあった人がすごく不幸というメールが来るのだ。コーナーとしては、不幸つっても他人から見れば笑えるという話ばかりだったのが、このバイト先の人──ココロちゃんは、正真正銘の不幸の星の下に生まれていた。親には捨てられ、犯罪には巻き込まれ、今では電気も通らない物置のようなところに住んでいる。しかし本人は自分が不幸ということにまったく気付いていない。そしてなぜかココロちゃんが行く先々で、いろんな事件が起き、ココロちゃんはその度に住む家をなくしたり大けがをしたりするんだが、それだけじゃない。同時に、ココロちゃんをよからぬことに利用しようとした人には必ず災難が降り掛かるのだ。──これって偶然?

 いやあ、面白い面白い。そして面白い中にも、時々ぞくっとする。若竹七海の真骨頂だなあ。
 コミュニティFMのパーソナリティの軽妙な語り口で始まるので、わははと笑いながらすいすい読んでたんだが、だんだん背筋が伸びてくるぞ。とっつきやすい文体の影に、なんか正体不明の黒い大きなものが見え隠れし始めるのだ。
 全13話、手を変え品を変え、いろんなココロ騒動を読者に提示しながら、ちょっとずつ餌を巻いて行く。ちょっとずつ仕掛けていく。そして当初は予想もしなかったようなところまで連れて行かれる。それは「最後にすべてキレイに繋がりました!」というようなロジカルな本格ミステリ的展開ではなく──敢えていうなら、不幸のわらしべ長者的展開。どこまで行くんだ、と。どれだけ巻き込むんだ、と。

 周囲の騒ぎはどんどん大きくなるんだが、ココロちゃんは最初から最後まで変わらないのがいいなあ。逆に言えば、本書はココロちゃんを描くふりをしながら、その周囲を描いているということになる。事件そのものの顛末のみならず、それに巻き込まれる人の生活や心情など。ぞくっとさせられるのは、そこに仕掛けられたミステリ的な結構によるものだけではない。巻き込まれたときにふと覗かせる、人としての狡さや弱さ。そここそが若竹コージーの読みどころ。

 それにしてもココロちゃんの正体、何なんだろうね。幸せとか不幸とかはものの見方ひとつ──そんなありきたりのテーマを具現化してるだけじゃないぞ。いやあ、もしかしたら、もっととてつもないものなんじゃないかしら。厄病神も神のうちっていうしね。

家元探偵マスノくん笹生陽子・ポプラ社

 副題は「県立桜花高校★ぼっち部」。ぼっち、てのはひとりぼっちのことだが、その対義語は「リア充」なんだそうだ。

 桜花高校に入学した倉沢チナツ。けれど入学直後に食あたりでしばらく欠席してしまったため、クラス内のグループ分けに乗り遅れ、なんとなくひとりで過ごす日々を送っている。そんなとき、ひょんなことから入った部は、「自分ひとりの部の部長」ばかりが集まる「ぼっち部」だった。
 演劇部と袂を分かち、第二演劇部部長を名乗る女優志望のタカビー女・ユリア、エア彼女を持ちRPG的生活にどっぷりハマる戦士部のサトシ(別名・覇王丸豹牙……わはは)、ネットからしか参加しない謎のスカイプさん、そして探偵部部長を自称する華道家元の息子、マスノ。
 彼らが校内で見つけたり巻き込まれたりした事件とその顛末がユーモラスな筆致で語られる連作集。

 タカビーで女優きどりなユリアも、自分は戦士だというサトシも、まあ実際にいたとしたらかなり痛々しいキャラ。そりゃ友達もいなかろう。リア充死ね、って小説で出てくるの初めてみたよこのフレーズ。
 となると普通は彼らが社会性を取り戻し──つまりは「リア充」の良さを知り、という方向に進むのかと思うよね思うでしょう。ところが。大きく言えば確かに彼らは「リア充」に近づくのだけれど、でもキャラクタ自体はブレないのだ。女優きどりも、戦士きどりも最後まで変わらない。その痛々しいキャラクタのまま、リア充に近づくという、まあなんとも不思議な、けれど何だか嬉しくなるような展開なのだ。

 その秘密は「ぼっち部」にある。ぼっち部の理念は「孤独に負けない強い心」そしてコミュニティのNGワードは「一致団結」「和気あいあい」なのだ。つまり孤独上等、孤高万歳、なのである。だから彼らは、最終的には「リアル友達じゃん!」と突っ込まれるくらい仲良くなるのだけれど、それでも彼らは変わらない。自分が是とする自分を、まず貫く。

 なんかね、人間関係ってこれでいいじゃん、と思わせてくれるのよ。相手に合わせて他人に合わせて自分を無くしてまで築く関係にどんな価値があるだろう。ぼっち部の彼らは、自らを戦士といい覇王丸豹牙と名乗るサトシを「はいはい」と受け入れ、時にはツッコみ、それはそれとして普通の高校生同士の会話をする。お菓子造りが趣味の女の子と、覇王丸豹牙が、それぞれの言葉で会話をし、ちゃんと通じる。

 ……ていうかさ、いやあ、語り口調って大事だなあと改めて思うよ。書かれてる話そのものはね、特に捻ったミステリというわけでもないし、瞠目するような仕掛けがあるわけでもない、キャラ先行のYA小説。ただチナツの語り口調が、すごくいいのだ。ですます調で飄々としてて。リア充死ね、とブチ切れるサトシも、チナツが描写するとすっごくキュート。深刻なシーンも、痛々しい描写も、チナツのほんわかおっとりした口調で語られると、「ま、いっかあ」という気持ちになってくる。実際は、おっとり口調と見せかけて、相当辛辣なツッコミを入れてたりもして、それが妙におかしかったり。──というか、地の文はほとんど全編がチナツの「おっとりツッコミ」なんだよね。うん、このかたり口調は芸だわ。

 いかにもイマドキな感じのネット系用語やゲーム用語が頻発するが、それがまた妙なおかしみがあって、おばさんでもするするついていけちゃうぞ。丁寧なですます調とネット言葉のコラボがこんなに面白いとは。てかここまで書いて主役(の筈の)マスノ君の話がゼロなんだが、まあいいや。本書はチナツの語り口調と覇王丸君のお笑いキャラだけで充分だ。

 それにしてもこの裏表紙のバーコードの位置が! 覇王丸君がしっかりつぶれちゃってるじゃないかー。

こめぐら・なぎなた倉知淳・東京創元社

 倉知淳と言えば、看板シリーズは何をさておき猫丸先輩シリーズだし、代表作は本格ミステリ大賞を受賞した『壷中の天国』ということになるだろう。じゃあそれ以外のノンシリーズ作品、特に短編はと問われると、ちょっと言葉に詰まってしまう。書いてないわけはないし、実際、アンソロジーや雑誌で読んだ覚えもあるんだが──。
 というアナタ(何を他人事のように)に朗報です! ノンシリーズの短編が2冊にまとまっての登場だ。いやあ、正直言ってさ、このままだと20年くらい経ってから、「倉知淳のノンシリーズ短編」ってマニアのコレクターズアイテムになるんじゃないかって感じだったからね。これは実に喜ばしい。

 「こめぐら」は主としてコメディタッチで非本格メイン、「なぎなた」はどちらかというとシリアスな話や真正面からの本格が収められており、まずは好みの方から手にとってみるといい。こうして読んでみると、猫丸先輩ってえのは、ホントに倉知淳のほんの一部に過ぎないんだなあと改めて思わされる。いやあ、幅広いよ。読みながらときどき「わあ、倉知淳らしいな」と思うんだけど、読み進むうちに「倉知淳らしいって、どういうのだ?」と自問してしまうほど。

 「こめぐら」所収の「Aカップの男たち」は、推理云々以前に、なぜその設定なんだと頭を抱えてしまうし、「さむらい探偵血風録 風雲立志編」はメタとパロディが混在した快作。風雲立志編って、なんだよその合わせ技サブタイトルは。そして「どうぶつの森殺人(獣?)事件」はもう、いちいち凝り方がくだらなくて(褒めてます)楽しい。ユーモアタッチじゃないのは「偏在」。でもこれはこれですごく変な話。もんのすごく土着的な話が、最後にはとんでもないところに連れて行かれてしまう。とにもかくにも、どの話もとびきり「変」で、猫丸先輩シリーズの「毒と響宴の殺人」が、あまりに普通に見えてしまうんだからどれくらい変かお分かり戴けるかと。

 翻って「なぎなた」は、唸る。「運命の銀輪」はサスペンスフルな倒叙モノだし、「見られていたもの」は実にテクニカル。「眠り猫、眠れ」「ナイフの三」「猫と死の町」は捻った本格。そして白眉は「闇ニ笑フ」だろう。他の収録作に比べれば、とてもシンプルでストレートなのだけど、著者も後書きで書いてるとおり〈最後の一撃〉として実に秀逸だ。アンソロジーで読んだので今回が初読ではなかったのだけど、それでも巧いなあ、と唸ってしまう。これ、発表年に何か賞にノミネートとかされなかったのかな? それくらいの出来だと思うよ。〈最後の一撃〉だけじゃなく、そこに至る物語の流れも含めてね。

 ということで、フザけた……じゃなくて変な話がお好きなら「こめぐら」を、ガチガチの本格が好きなら「なぎなた」を、倉知ファンなら両方をどうぞ。全収録作に著者のコメントがついてるのもファンには嬉しいサービス。ただ、猫が出て来る作品については「猫、かわいい」というだけでぜんぜん自作解説になってないのでご注意を。──ああ、そこばかりは紛れも無い「倉知淳らしさ」だな。

サニーサイド・スーサイド北國浩二/原書房

 とある高校のカウンセリングルーム。ここを訪れた生徒の中の誰かが、自殺しようとしている──? スクールカウンセラーの小此木はそれが誰なのか懸命に探す。そして物語は、「その日」から遡って、カウンセリングルームに来た生徒たちひとりひとりの生活を紡いでいく。果たして自殺を考えているのは誰なのか。小此木はそれを止めることができるのか?

 原書房からってことで本格ミステリとしての楽しみ方を期待してしまうと、正直なところちょっと点が辛くなる。ある人物の扱い方と帯の文言のせいで「あ、もしや」と見当をつけちゃう読者がいると思うのよ。あ、推理できるという意味じゃなく、雰囲気からパターン検索しちゃうという意味なので、本格として“簡単”ということではありませんよ。ただパターン分類にハマってるという点で本格としては──という感想になっちゃうんだが、でもそれはたくさんある物差しの中のひとつには合わないというだけで、小説としての瑕疵じゃない。

 もう読んでて心が痛くて痛くて。手に醜いイボがあるというだけで周囲から忌避され、キャッチボールの相手もままならない野球部員。モンスターペアレンツを持つ、自己チューな女生徒。バスケでプロになるんだから勉強の必要はないと言いきるバスケ特待生。リスカ常習者。陰湿ないじめに遭う女生徒。あることの代償にクラスメイトの下僕になる道を選んだ優等生──。
 誰もが、高校と言う狭い狭い社会の中で、でもそれが自分の世界のすべてになっていて、そのせいで辛い現状を打破できないでいる。イボのある野球部員の言葉がそれを示している。イボは1〜2年で治るという医者の言葉に「それじゃ高校生活は終わってしまう」と叫ぶのだ。将来なんて、この年頃にとってはまだファンタジーの領域。今の社会、今の人間関係、今の自分。それが世界のすべてになってしまう年頃。

 彼らのヒリヒリするような足掻きは、読んでいて痛い。痛々しい。笑い飛ばせない、開き直れない、そんな弱さと不器用さが辛くてたまらない。こういうオムニバス風に6つも7つも〈辛い話〉が並行して語られると、読者は必ずどこかに自分を見る。当事者として似たような経験のある人には耐えられないだろうし、当事者じゃなくても、他人の気持ちを慮ることができず尻馬に乗って騒いだり、我関せずを決め込んだり、思い込みが強かったり、他人をバカにしてたりというような、誰もが多かれ少なかれ身につまされるように作られている。感情移入するなという方が無理だ。ある意味、ずるいよこれは。イマドキのいじめのディテールなんかもう、ホントに心が荒むしさあ。

 そして同時に腹が立つ。表面張力でやっともってるような彼ら。一押しすれば水がこぼれてしまうであろう彼らに対し、「戦え」とは言わない。でもどうして助けを求めるなり引きこもるなりして、自分を救おうとしないのか。彼らを見ていて一番辛いのは、誰一人として自助努力をしないことだ。嫌だ、辛い、どうして私がこんな目に。そう叫ぶだけで、自分を変えようとせず、周囲が変わることばかり望んで、そして待ってる。それが腹が立つ。

 それはおそらく、高校生に限ったことではなく、現代社会を描く上で最も典型的な病理なのだと思う。彼らは小此木の助けを得たり、ついに表面張力が限界を超えてブチ切れたり、たまたま偶然に恵まれたりしながら、少しずつ変わっていくわけだが、それは彼らと小此木の物語。ストーリーの中核であるはずの悲しい出来事は、何も生まなかった。この出来事は、時がたてば「高校時代にそんな出来事もあったよな」というレベルにまで忘れられていくだろう。それが本書最大の「残酷さ」であることを読者は知らねばならない。

窓の外は向日葵の畑樋口有介/文藝春秋

 東京の下町、佃島で父と二人暮らしの青葉樹(しげる)。高校2年生。父親は元警察官だが、今は自営業の傍ら、ミステリ小説を書いては新人賞に応募しているという暮らし。夏休みのある日、樹の所属する江戸文化研究会の部長・高原が失踪した。その捜索の手伝いを買って出た樹の父親だったが、その動機はどうも部活の美人顧問・若松先生にあるようで……。

 作中、作家志望の父親の作品について、樹がこんなふうに評価するくだりがある。

 
親父の作品はいつも中年の私立探偵が活躍するハードボイルド。それも被害者やら容疑者やらの登場人物がみんな嘘みたいな美人で、そういう美人たちに主人公の私立探偵が、なぜかモテてしまうのだ。ぼくはいつも「父さん、いくらなんでも、これじゃ話がうますぎるよ」と指摘するのだが、親父には「それこそが男のロマンなのだ」と一蹴される。

 
全国の樋口有介ファン、鼻から牛乳。

 もうひっくり返って笑ってしまった。なんという自虐ネタを仕込んでくるんだこのオッサンは! しかも開き直られちゃったよ一蹴されちゃったよ! これまで作品を出すごとに言われてきたであろう読者からの指摘に対し、作中人物に反論させるとは。ぶわっはっはっは。樋口さん、ここ書きながらニヤニヤしてたんだろうなあ。ああもう、この部分、全国の樋口ファンにメールで送りつけたい。

 そして今回もしっかり、主人公(高校生だけど)はモテまくるのである。幼なじみ(これがまたワケあり)しかり、部活の女子生徒しかり。それを本人は飄々とかわしていくのもいつもの通り。おまけに樹を憎からず思っているであろう二人の女子の、その気持ちの表し方──わざと憎まれ口を叩くとか不機嫌をアピールするとかまで例によって例のごとくで、でもやっぱりそれが男のロマンなんだと言われれば、そりゃもうアンタ、読む側はすべてのツッコミを封じられてしまった次第。

 そういう意味では本書はまさにザ・樋口有介という感じの青春ミステリ。父親と二人暮らしで夏休みの事件というのも、先生が美人というのも、おまけに××が××というのもデビュー作と同じで、原点回帰の一冊と言えましょう。ただこの父親の使い方には舌を巻いた。デビュー作でも父親はトボけた風味満載だったし、シビアな過去を感じさせない軽口は草平も同じなんだが、この父ちゃんはスットボケ具合がかっこいいなー。この父ちゃんの話を読んでみたいな。草平ちゃんほど美人にモテそうな感じでもないし、これまでとは違う軽ハードボイルドになるんじゃ? あ、それじゃロマンがないのか。

 フェアな謎解きができるようなタイプのミステリではないけれど、いつもの樋口テイストを存分に味わった上で、ちょこっと社会派的要素もまぶしつつ、胸キュンの淡い恋愛模様まで楽しめちゃう。デビュー当時からの樋口ファンには、タマラない一冊なのではないかしら。

かいぶつのまち水生大海/原書房

 デビュー作「少女たちの羅針盤」の続編と聞いて、「どうやって?」とまず思った。だってアレの続編って、なあ?

 登場人物は──えっと、どこまで書いていいのかな。
「少女たちの羅針盤」を未読の人に先入観を与えちゃうんじゃないかとちょっと心配なんだが、前作に出て来た、高校時代に演劇サークル〈羅針盤〉のメンバーだった3人です。社会人になったあと、その中のひとりが書いた脚本が母校の演劇部で使われることになり、挨拶と陣中見舞いに大会会場へ出かけたところから物語は始まる。あ、ただ前作を未読でも、本書単体でミステリとして楽しむ分には大きな問題はありませんのでご安心を。

 でもって母校の演劇部は、なんかちょっと様子が変。昔からいる顧問がエキセントリックなのは百も承知だが、生徒たちもおかしい。どうやら大会前にトラブルによる主役交代劇があり、部内がぎすぎすしてるっぽいのだ。そんなとき、出演者や関係者が次々に体調を崩すという事態が起きた。そして、彼らの上演するお芝居に見立てたような凶器が届き──。邪魔をするのは誰だ? そしてその目的は?

 本書のミソは、時折挿入される犯人と思しき「かいぶつ」のモノローグ。それはもちろん読者にだけ与えられる手がかりであり情報なので、読者はそのモノローグをヒントにフーダニットに挑むわけだが。ここは推理というよりも次第に消去法である程度絞れてしまうということもあり、その上でかいぶつの主張の内容を考え、ミスディレクションの可能性を考えると(嫌な読者だねえ)、このあたりだろうか──という方向付けが可能と言えば可能。加えて、作中で「かいぶつ」が絞られる過程も極めて順当なため、「かいぶつ」の正体については、あるいはそれほど大きなサプライズがあるわけではない、とも言える。

 けれど何より素晴らしいのは、その後の犯人告発シーン・対決シーンだ。これほどまでにケレン味たっぷりで迫力満点の犯人告発はそうそうあるものじゃない。読んでいる間、脳内でずっと「オペラ座の怪人」のテーマが鳴り響いていた(♪どんちゃ、どんちゃ、だだーらららら、ふぁーなななー)。ぞくぞくした。絵が浮かんで、その浮かんだ絵に圧倒された。この盛りあがり、この迫力は、この舞台設定だからこそのものであり、演劇というものにまつわるシリーズとしてはこれ以上の演出はないだろう。

 内容にも触れておかねば。かつては高校生で演劇を一生懸命やっていたOGと、現役演劇部員たちの交流。それはOGにとってはかつての自分たちの姿を見るに等しい。現役の彼らが何を大事に思い、何を優先させたいと思っているかは、手に取るようにわかる。自分の書いた脚本を後輩の彼らが演じてくれるということで、仲間意識もある。しかしその一方で、自分は明らかに彼らとは違う場所にいて、彼らとは違ってしまった価値観でものを捉え、彼らの中には決して入れないということも痛感する。まあね、会った事も無いOGがいきなりやってきて先輩面されたら、後輩としてはウザいと思うこともあるよ。なあ? だってそこは、今は自分たちの場所なんだから。OGの場所じゃないんだから。

 通り過ぎた思い出の場所や自分が作り上げた作品は、宝物だ。けれどその宝物には現在の所有者がいる。現在の所有者は、過去の所有者の気持ちを慮ったりはしない。けれど現在の所有者なりにその宝物を大事に思い、愛している。世代の違いは超えられないが、ひとつの目的のもとにOGと現役が共同戦線を張る様は、本書のもうひとつの白眉と言っていい。後輩が変えてしまった──変えざるを得なかった脚本。OGは彼らに協力して、その「変更」を修復していくのだ。舞台の上ではなく、現実の生活の中でも。

 離れてしまった者と、そこにいる者。現役高校生たちも、いずれこの場所を去る。その後になって、彼らは初めてOGたちの気持ちを知るのだろう。

空想オルガン初野晴/角川書店

 来たよ来たよシリーズ3作目だよ!
 舞台は東海地方にある高校の吹奏楽部。体育会系な中学時代を送っていた穂村千夏が、心機一転、女の子らしくフルートを吹くんだと吹奏楽部に入ったはいいが、部員はたった3人。そこから紆余曲折と謎解きを経て次第に部員を増やしていく──というエピソードが「退出ゲーム」「初恋ソムリエ」の2冊で綴られてきた。
 この2作がもう、素晴らしくて。ときには緻密に構成され、ときには豪腕でねじ伏せる本格ミステリと、朗らかな中に苦みを含んだ青春小説が、ヒロイン千夏ちゃんのポップ&当意即妙の語りでくるまれる。サプライズもキャラクタもナラティブも、どこをとっても随一。

 そして第3作だ。これまでは「謎を解けば部員が増える」という、そりゃいったい何のRPGだというような設定がベースにあったが、今回はついに大会にエントリーするということもあり、ちょっと趣向が変わった。第一話「ジャバウォックの鑑札」は県内での地区大会が、第二話「ヴァナキュラー・モダニズム」は県大会までの準備期間が、第三話「十の秘密」は県大会が、そして第四話「空想オルガン」では東海大会が舞台となる。さすがに事ここに至っては、一編ごとに部員が増えるというようなことはない。代わりに「大会」というこれまでになかった物語と、四話全編を貫くひとつの物語がある。

 「ジャバウォックの鑑札」は迷子の犬を青年と少女がそれぞれ「自分のものだ」と主張する話。決め手になる〈あるモノ〉は暗号ミステリとして実に秀逸。シンプルだが、あっと言わされた。
 「ヴァナキュラー・モダニズム」にはハルタの姉が登場。ハルタのアパート探しの過程で、夜な夜な謎の音が響くという建物の謎を解く。これ、映像で考えるとものすごいぞ。ある種、館モノと言ってしまっても良い。そして近年の館モノの短編ではピカイチ。あんま短編で館モノってのも見ないけどさ。
 「十の秘密」は県大会のライバル校の話。独特のコスチュームで揃え、奇妙な秘密を共有する女の子たちに隠された悲しい真実。
 そして「空想オルガン」は、そこまでの話にちょこちょこ顔を出していたある人物の物語になる。

 一話と二話が暗号&館という本格のモチーフを使っていたのに対し、三話と四話は〈洞察〉の物語だ。これがまた、小さなエピソードがいちいち味わいがあって、小粒ながら胸にズンと来る。メインの謎もそうなんだけど、それ以外の謎とは言えないような小さな謎解き──なぜ少人数でオペレッタの演奏が可能なのかとか、芹沢が吹奏楽部の応援に来ていることの意味とか、オルガンリサイタルの意味とか──そういう部分に「えっ」と思わされ、「ああ……」と溜息をつく。

 文章も巧いんだよね。あ、違う、とにかく何はさておき、文章「が」巧いんだ。語彙の選び方が秀逸で、演出に合ったセリフ回しがわざとらしくなく、自然に出てくる。言葉にもエピソードにもムダなものは何ひとつないのに、遊びがある。だから読んでいて楽しく、くいくい読めて、笑って、そして笑っているところに不意打ちで驚きがやって来る。

 このシリーズ、まだ終わらない。なんとなく一区切りっぽい感じにも見えるけど、チカちゃんとハルタの恋にも決着はついてないし、草壁先生のこともわからないし、きっと続いてくれるはず。待ってる。待ってるぞ!

 

上手に人を殺すにはマーガレット・デュマス/創元推理文庫


 出ました、〈ぶっ飛びセレブ奥様探偵と愉快な仲間たち〉第2弾!

 登場人物の背景については
シリーズ第1作でいろいろ明らかになった部分もあるんだけど、そのへんは未読の方の興を削ぐので書かないでおこう。
 チャーリーの夫のジャックは、盟友マイクと一緒にコンピュータ・セキュリティの会社を経営している。そのクライアントである大手IT企業CEOモーガンの婚約者がスポーツジムで死んだ。モーガンは殺人だと主張し、その調査をジャックに依頼する。その亡くなった婚約者というのが、偶然チャーリーの友人ブレンダの古い知り合いだったことが分かり、チャーリーも自分で調査を始めるが……。

 今回もチャーリーは絶好調だ。おまけに愉快な仲間たちも輪をかけて絶好調だ。
 中でも読みどころは、チャーリー&仲間たちがくだんのIT企業の内情を探り怪しい人物をあぶり出すため、投資者から送り込まれた調査チームを装って企業内部に入り込むくだり。フィナンシャル・プランナーのアイリーンは別として、セレブのチャーリーも、劇団のサイモンも、学者のブレンダも、一般企業で働いたことなんかないわけで、なのにいかにも「専門の調査チームです」という雰囲気を出さねばならない。そのためにそれぞれ役割をふって仕込みをするあたりが楽しい楽しい。どこのゴリラか、と思うようなボディガードのフランクを秘書に見せかけるあたりなんか、無理があるにもホドがある。

 チャーリーって金持ちならではの甘えやわがままもあるけど、自分のことをちゃんとわきまえてるあたりが魅力なんだよね。でもって「それは許さないよ」と夫に言われたとき「私の行動をなぜあなたに許してもらう必要があるのか」と食ってかかるプライドと自立心もある。
 でもね、2作読んで感じたことがある。結局チャーリーって、いざってときはジャックに守られてるし、結局のところジャックの書いた筋書きに乗せられてるところも大きい。チャーリーよりジャックの方が、人間の器が大きいという描かれ方をされてる。
 好奇心旺盛で無鉄砲なヒロインが実が男性の手のひらの上にいて、いざというときに王子様が助けてくれるというパターンはあたしは大嫌いなはずなんだけど、ところがなぜかこのシリーズはそれが心地良くて安心感もあるんだよなあ。なぜだろう。そこらはちょっと時間をかけて考えたいところ。

 さて本編でもうひとつ楽しかったのは、チャーリーとジャックの新居の様子。ホテル住まいを終わらせて家を買ったはいいけど、インテリアが決まらない。あるのはベッドだけで、テーブルも椅子もない。こだわりが強過ぎて、というよりはただ面倒くさいだけみたいだチャーリーは。したらばさ、ジャックやハリーや友達が、なにかにつけて家具を持ち寄るようになる。それで家がだんだん変わって行く様がね、もう面白くて面白くて。
 家ってのは単なる箱じゃなくて、そこで過ごす人たちがいて初めて家になる。椅子一脚ずつ、ラグ1枚ずつ、ゆっくりゆっくり増えていくチャーリーの家は、そうやって家から家庭へと変わるのだな、とにこにこしながら読んだ。