ア行の作家

犬の力ドン・ウィンズロー/角川文庫


 正直言って、CIAとかマフィアとか殺し屋とか麻薬カルテルとか、そういったモチーフにはあまりそそられない。なのになぜこれを手に取ったかというと……ドン・ウィンズローという作家にはそそられるからだ。お釣りが来る程。

 舞台は主としてメキシコ。主要人物はDEA(麻薬取締官)のアート、メキシコのマフィアで麻薬を扱うバレーラ一党、ニューヨークの若者で後に殺し屋となるカラン、そして絶世の美女にして後に高級娼婦となるノーラ。物語のメインにあるのはメキシコで作られたコカインが合衆国へと流れ込む、そのルートを断とうとするアートの話なんだが……いやもう、そんなシンプルなストーリーじゃないのよこれが。

 彼らの人生は別のところが出発点であったにも関わらず、1975年から1998年の長きに亘って複雑に交差し、絡み合い、ときにはすれ違い、そしてまた絡み合う。読み始めて間もなく、話がいったいどこに向かっているのかまったく分からなくなり、けれどとてつもない吸引力でページをめくらせる。まるで猛スピードで失踪する行き先不明の車に乗せられているようなもんだ。しかもその車はブレーキが効かないと来る。

 おまけに訳文が素晴らしい。文体には基本的に現在形が用いられているので、まさにリアルタイムでそのシーンが展開されているかのような臨場感を味わわせてくれる。特に一行空きの前の現在時制文の効果と言ったら! 眼前で繰り広げられている映画のワンシーンが一瞬静止し、暗転、そして場面転換……そんなイメージで物語が進むのよ。陰惨で凄惨で救いなんか殆ど無い展開が続くのに、この文体が物語にテンポの良さとクールな印象を与えるために、悲惨な場面も引きずらないで済む。

 読んでいる間、ずっと「因果」という言葉が脳裏に浮かんで離れなかった。いったいどうしてこんなことになってしまうのか、他に道はないのかと歯ぎしりをする思い。でももしかしたら、一番戸惑っているのは登場人物たちかもしれない。
 もともとウィンズローの作品はニール・ケアリー・シリーズが好きで、本書を読んだ今でもやはり好みを問われればニール・ケアリーの方に軍配があがるんだが、それでも本書が年間ベスト級なのは間違いない。