か行の作家

こめぐら・なぎなた倉知淳・東京創元社

 倉知淳と言えば、看板シリーズは何をさておき猫丸先輩シリーズだし、代表作は本格ミステリ大賞を受賞した『壷中の天国』ということになるだろう。じゃあそれ以外のノンシリーズ作品、特に短編はと問われると、ちょっと言葉に詰まってしまう。書いてないわけはないし、実際、アンソロジーや雑誌で読んだ覚えもあるんだが──。
 というアナタ(何を他人事のように)に朗報です! ノンシリーズの短編が2冊にまとまっての登場だ。いやあ、正直言ってさ、このままだと20年くらい経ってから、「倉知淳のノンシリーズ短編」ってマニアのコレクターズアイテムになるんじゃないかって感じだったからね。これは実に喜ばしい。

 「こめぐら」は主としてコメディタッチで非本格メイン、「なぎなた」はどちらかというとシリアスな話や真正面からの本格が収められており、まずは好みの方から手にとってみるといい。こうして読んでみると、猫丸先輩ってえのは、ホントに倉知淳のほんの一部に過ぎないんだなあと改めて思わされる。いやあ、幅広いよ。読みながらときどき「わあ、倉知淳らしいな」と思うんだけど、読み進むうちに「倉知淳らしいって、どういうのだ?」と自問してしまうほど。

 「こめぐら」所収の「Aカップの男たち」は、推理云々以前に、なぜその設定なんだと頭を抱えてしまうし、「さむらい探偵血風録 風雲立志編」はメタとパロディが混在した快作。風雲立志編って、なんだよその合わせ技サブタイトルは。そして「どうぶつの森殺人(獣?)事件」はもう、いちいち凝り方がくだらなくて(褒めてます)楽しい。ユーモアタッチじゃないのは「偏在」。でもこれはこれですごく変な話。もんのすごく土着的な話が、最後にはとんでもないところに連れて行かれてしまう。とにもかくにも、どの話もとびきり「変」で、猫丸先輩シリーズの「毒と響宴の殺人」が、あまりに普通に見えてしまうんだからどれくらい変かお分かり戴けるかと。

 翻って「なぎなた」は、唸る。「運命の銀輪」はサスペンスフルな倒叙モノだし、「見られていたもの」は実にテクニカル。「眠り猫、眠れ」「ナイフの三」「猫と死の町」は捻った本格。そして白眉は「闇ニ笑フ」だろう。他の収録作に比べれば、とてもシンプルでストレートなのだけど、著者も後書きで書いてるとおり〈最後の一撃〉として実に秀逸だ。アンソロジーで読んだので今回が初読ではなかったのだけど、それでも巧いなあ、と唸ってしまう。これ、発表年に何か賞にノミネートとかされなかったのかな? それくらいの出来だと思うよ。〈最後の一撃〉だけじゃなく、そこに至る物語の流れも含めてね。

 ということで、フザけた……じゃなくて変な話がお好きなら「こめぐら」を、ガチガチの本格が好きなら「なぎなた」を、倉知ファンなら両方をどうぞ。全収録作に著者のコメントがついてるのもファンには嬉しいサービス。ただ、猫が出て来る作品については「猫、かわいい」というだけでぜんぜん自作解説になってないのでご注意を。──ああ、そこばかりは紛れも無い「倉知淳らしさ」だな。

サニーサイド・スーサイド北國浩二/原書房

 とある高校のカウンセリングルーム。ここを訪れた生徒の中の誰かが、自殺しようとしている──? スクールカウンセラーの小此木はそれが誰なのか懸命に探す。そして物語は、「その日」から遡って、カウンセリングルームに来た生徒たちひとりひとりの生活を紡いでいく。果たして自殺を考えているのは誰なのか。小此木はそれを止めることができるのか?

 原書房からってことで本格ミステリとしての楽しみ方を期待してしまうと、正直なところちょっと点が辛くなる。ある人物の扱い方と帯の文言のせいで「あ、もしや」と見当をつけちゃう読者がいると思うのよ。あ、推理できるという意味じゃなく、雰囲気からパターン検索しちゃうという意味なので、本格として“簡単”ということではありませんよ。ただパターン分類にハマってるという点で本格としては──という感想になっちゃうんだが、でもそれはたくさんある物差しの中のひとつには合わないというだけで、小説としての瑕疵じゃない。

 もう読んでて心が痛くて痛くて。手に醜いイボがあるというだけで周囲から忌避され、キャッチボールの相手もままならない野球部員。モンスターペアレンツを持つ、自己チューな女生徒。バスケでプロになるんだから勉強の必要はないと言いきるバスケ特待生。リスカ常習者。陰湿ないじめに遭う女生徒。あることの代償にクラスメイトの下僕になる道を選んだ優等生──。
 誰もが、高校と言う狭い狭い社会の中で、でもそれが自分の世界のすべてになっていて、そのせいで辛い現状を打破できないでいる。イボのある野球部員の言葉がそれを示している。イボは1〜2年で治るという医者の言葉に「それじゃ高校生活は終わってしまう」と叫ぶのだ。将来なんて、この年頃にとってはまだファンタジーの領域。今の社会、今の人間関係、今の自分。それが世界のすべてになってしまう年頃。

 彼らのヒリヒリするような足掻きは、読んでいて痛い。痛々しい。笑い飛ばせない、開き直れない、そんな弱さと不器用さが辛くてたまらない。こういうオムニバス風に6つも7つも〈辛い話〉が並行して語られると、読者は必ずどこかに自分を見る。当事者として似たような経験のある人には耐えられないだろうし、当事者じゃなくても、他人の気持ちを慮ることができず尻馬に乗って騒いだり、我関せずを決め込んだり、思い込みが強かったり、他人をバカにしてたりというような、誰もが多かれ少なかれ身につまされるように作られている。感情移入するなという方が無理だ。ある意味、ずるいよこれは。イマドキのいじめのディテールなんかもう、ホントに心が荒むしさあ。

 そして同時に腹が立つ。表面張力でやっともってるような彼ら。一押しすれば水がこぼれてしまうであろう彼らに対し、「戦え」とは言わない。でもどうして助けを求めるなり引きこもるなりして、自分を救おうとしないのか。彼らを見ていて一番辛いのは、誰一人として自助努力をしないことだ。嫌だ、辛い、どうして私がこんな目に。そう叫ぶだけで、自分を変えようとせず、周囲が変わることばかり望んで、そして待ってる。それが腹が立つ。

 それはおそらく、高校生に限ったことではなく、現代社会を描く上で最も典型的な病理なのだと思う。彼らは小此木の助けを得たり、ついに表面張力が限界を超えてブチ切れたり、たまたま偶然に恵まれたりしながら、少しずつ変わっていくわけだが、それは彼らと小此木の物語。ストーリーの中核であるはずの悲しい出来事は、何も生まなかった。この出来事は、時がたてば「高校時代にそんな出来事もあったよな」というレベルにまで忘れられていくだろう。それが本書最大の「残酷さ」であることを読者は知らねばならない。

死ねばいいのに京極夏彦/講談社


 何年前かなあ、テレビでダウンタウンの浜田雅功さんが、他人に向かって「死ねばいいのに」と言っているのを聞いたときにはギクリとした。そしてとても嫌な気持ちになった。ギャグだと、冗談なんだと、言われる側も笑ってるんだと、重々承知していても、それでも「死ねばいいのに」なんて言葉、使って欲しくないと思った。ノリで使って笑って済ませられるような、そんな軽い言葉じゃないだろ?
 以来、「死ねばいいのに」はあたしの中で、〈日常生活で絶対に口にしたくない言葉ランキング〉の1位2位を争う位置にある。ブログなどで「死ねばいいのに」という言葉をジョークとして使ってる人を見たら、「ああ、この人はこの言葉を抵抗無く使えるタイプの人なんだな……」と感じ、ちょっと印象が変わったりもする。まあ、個人的な勝手な見方ですけどね。

 それほど嫌いな言葉が書名になるってアンタ、在庫の確認をするため書店に電話をかけ、電話口で「死ねばいいのに」「死ねばいいのに」と繰り返すたびにどれほど心が荒んだことか。

 本書はインタビュー形式。ある女性が死んだあとで、その女性と関わりのあった人のところにケンヤという無作法な若者が現れ、その死んだ女性のことを教えてくれ、と言う。視点は、いきなりケンヤに訊かれた側(インタビュイー)の方で、だからまずケンヤという頭の悪そうな若者に対して警戒するし、なんで自分にそんなことを訊くんだと不審に思ったりもする。
 けれど、自称「頭が悪い」ケンヤの素朴な質問に答えるうちに、インタビュイーたちの言い分がいかに空虚で身勝手なものなのか、その実態が丸裸にされて行くのだ。そしてその先には、思わぬ真相が待っている。

 仕掛けとしては特に凝ったものではない。ひとつのパターンの繰り返しでもある。けれど読まされてしまい、「巧いな」とつくづく感じてしまうのは、やはり京極夏彦だからとしか言いようが無い。ケンヤの役目(の一部)は京極堂の憑き物落としに等しい。物事を飾らず誤摩化さず、シンプルにシンプルにつきつめていけば、真実が見えてくるのだ。グサグサ来る。ホントにグザグサ来る。テーマがあまりにも前面に出過ぎで分かり易過ぎるのが気になるが、圧倒的な文章の力がそれをむしろ美点に転化している。

 ケンヤの決めセリフ「死ねばいいのに」には、「そんなに辛いなら死ねばいいのに、死なないのは死なないでいる理由があるからでしょう? それが何なのかわかるでしょう?」という問いかけもしくは糾弾がある。バラエティ番組やブログなどで目にする「死ねばいいのに」は、「私にとってあなたは目障りだからいなくなればいいのに」というエゴでしかない。けれどケンヤの「死ねばいいのに」は甘えずに自分をもう一度見つめるという自助努力だ。そこが決定的に違うのである。
 甘えたことを考えたり、うまくいかないことを他人のせいにしたくなったら、再読しよう。そしてケンヤに喝を入れてもらおう。

扼殺のロンド小島正樹/原書房


 読み終わって、まず最初に戻った。プロローグをもう一度、確かめながら読む。……うーん、一カ所、どうにも解せないところがあるんだが……あ、そうか、そういうことか……ま、いっか。<いいのか。

 と、ちょっと最初と最後のつながりにスッキリしない部分はある(思わせぶりにしつつ整合性をとらなくちゃならないせいか)ものの、本書に出て来る謎はなかなかに強烈だ。なんせアンタ、二重密室の猟奇殺人ですよ。死体はふたつ。腹を切り裂かれ胃腸が奪われた女の死体。そして無傷の男の死体。そのふたつの死体がドアも窓も開かない事故車の中で見つかる。しかもその事故車は施錠された古い工場の中にあった。もちろん凶器も内蔵も車内にはない──。うわあ、なんというケレン! これでもかってくらいの派手な不可能殺人!

 となるとエキセントリック且つ超人的な名探偵が出て来て、どろどろした人間関係が云々みたいなふうになるとかと思いきや。謎にあたるのは生活感溢れるごくごく真っ当な刑事たちである。もちろん「名探偵」は出て来るんだけど、そして彼も個性的ではあるし謎も解くんだけど──それでもやはり事件に直接対峙するのは刑事たちなんだよね。でもって個人的な趣味で言うなら、だからこそ良い、と思うのだ。ケレンに溢れた不可能状況でありながら、刑事たちが事件を現実側に引き寄せてくれる。虚構の中に閉じ込めず、人々が日々の生活をおくる現実に広げてくれる。

 ただまあ、それを良しとするのは多分に自分の好みの問題であって、この状況・この真相なら、なんぼでもおどろおどろしくできるよなあ、と思わないでもない。横溝ばりの世界を構築することが──あるいは三津田信三的風味に仕上げることが、充分可能。このモチーフ、このトリック……どっちが良かったんだろうと考えると、かなり難しい問題だ。鑑識だの医学知識だのも登場するので、科学抜きには語れないというのはあるにせよ。

 謎解きには膝を打った。途中まで作者の術中にはまり「いや、それどう考えても無理だし!」と眉に唾をつけながら読んでいた部分がすべてキレイに整理されたときには、参った、と思った。関係者が少ないので人がどんどん殺されるうちに自然と容疑者があっちかこっちという状況になるのがチトもったいない気はするものの、なるほどこれはトリックメーカーの面目躍如だと感心した次第。

おさがしの本は門井慶喜/光文社


 市立図書館を舞台にした連作ミステリ。主人公はリファレンスコーナー担当の司書・和久山。彼の所に持ち込まれる本探しの依頼がそのまんま謎になるという趣向で、楽しい楽しい。「人形の部屋」で見せたペダントリーも、今回は文学方面に特化した分、更に磨きがかかってるぞ。

 「図書館ではお静かに」はレポートの資料を探しに来た女子大生、「赤い富士山」は五十年前から図書館に置きっぱなしの私物の本を探して返して欲しいという依頼。「図書館滅ぶべし」は“図書館閉鎖論”を持つ新館長からの本探しの挑戦。「ハヤカワの本」は図書館の蔵書を返却しないまま夫が亡くなったというおばあちゃんの話。そして「最後の仕事」は図書館存続をかけて市の公聴会で演説をぶつ一方、市会議員からの思い出の本探しの依頼──という五編を収録。

 いやあ、実は「図書館ではお静かに」を読み始めたとき、最初に感じたのは主人公・和久山に対する「こいつナニ様?」という反発だったんだよね。森鴎外の本名・森林太郎を知らずに「シンリン太郎」と口にした女子大生に対し、「浅学菲才の徒」「十ページ以上ある本を読み通したことがあるだろうか」などと考えるあたりに初手からカチンと来てしまったのだ。書評なんて仕事をしてるあたしが口にするセリフではないかもしれないが、別に本をどれだけ読んでるかなんて、人の価値にはあんまり関係ないだろー。寧ろ読書家であることが何かスペシャルなことであるかのように思う方が歪じゃないか……などと考えていたわけよ。彼女は森林太郎は知らなくても、和久山の知らない「本以外のこと」をたくさん知ってるんじゃないのか?と。

 ところが読み進むにつれて笑いが漏れた。そういう鼻につく和久山の態度が、ちゃんとウッチャリを食らうのだ。ベタではあるが気持ちいい。気持ちいいが故に、第二話以降のペダントリーも、鼻についたりカチンと来たりすることなく、寧ろ和久山の「書物に対する思いと矜持」というふうに受け取れるようになった。巧いなあ。そうやってタクトを一回逆方向に大きく振っているからこそ、その後が映えるんだな。  実際の図書館員がリファレンスコーナーでいかに奮闘しているかというのは、縁あってあたしもその一端を知っているので、本探しの道筋はとても興味深く楽しくエキサイティングだった。本探しってホントに推理なんだよな、という思いを強くする。

 ただちょっと気になったのは、「赤い富士山」なんだよね。私物なら背表紙の図書シールや蔵書印の類が無いはずだから、すぐに見つかると思うんだけどなあ……。それとも五十年のうちに蔵書にされちゃったのかしらん? まあ、たいした問題ではないし、そこらの説明をあたしが読み落としてるだけかもしれませんが。