死ねばいいのに京極夏彦/講談社


 何年前かなあ、テレビでダウンタウンの浜田雅功さんが、他人に向かって「死ねばいいのに」と言っているのを聞いたときにはギクリとした。そしてとても嫌な気持ちになった。ギャグだと、冗談なんだと、言われる側も笑ってるんだと、重々承知していても、それでも「死ねばいいのに」なんて言葉、使って欲しくないと思った。ノリで使って笑って済ませられるような、そんな軽い言葉じゃないだろ?
 以来、「死ねばいいのに」はあたしの中で、〈日常生活で絶対に口にしたくない言葉ランキング〉の1位2位を争う位置にある。ブログなどで「死ねばいいのに」という言葉をジョークとして使ってる人を見たら、「ああ、この人はこの言葉を抵抗無く使えるタイプの人なんだな……」と感じ、ちょっと印象が変わったりもする。まあ、個人的な勝手な見方ですけどね。

 それほど嫌いな言葉が書名になるってアンタ、在庫の確認をするため書店に電話をかけ、電話口で「死ねばいいのに」「死ねばいいのに」と繰り返すたびにどれほど心が荒んだことか。

 本書はインタビュー形式。ある女性が死んだあとで、その女性と関わりのあった人のところにケンヤという無作法な若者が現れ、その死んだ女性のことを教えてくれ、と言う。視点は、いきなりケンヤに訊かれた側(インタビュイー)の方で、だからまずケンヤという頭の悪そうな若者に対して警戒するし、なんで自分にそんなことを訊くんだと不審に思ったりもする。
 けれど、自称「頭が悪い」ケンヤの素朴な質問に答えるうちに、インタビュイーたちの言い分がいかに空虚で身勝手なものなのか、その実態が丸裸にされて行くのだ。そしてその先には、思わぬ真相が待っている。

 仕掛けとしては特に凝ったものではない。ひとつのパターンの繰り返しでもある。けれど読まされてしまい、「巧いな」とつくづく感じてしまうのは、やはり京極夏彦だからとしか言いようが無い。ケンヤの役目(の一部)は京極堂の憑き物落としに等しい。物事を飾らず誤摩化さず、シンプルにシンプルにつきつめていけば、真実が見えてくるのだ。グサグサ来る。ホントにグザグサ来る。テーマがあまりにも前面に出過ぎで分かり易過ぎるのが気になるが、圧倒的な文章の力がそれをむしろ美点に転化している。

 ケンヤの決めセリフ「死ねばいいのに」には、「そんなに辛いなら死ねばいいのに、死なないのは死なないでいる理由があるからでしょう? それが何なのかわかるでしょう?」という問いかけもしくは糾弾がある。バラエティ番組やブログなどで目にする「死ねばいいのに」は、「私にとってあなたは目障りだからいなくなればいいのに」というエゴでしかない。けれどケンヤの「死ねばいいのに」は甘えずに自分をもう一度見つめるという自助努力だ。そこが決定的に違うのである。
 甘えたことを考えたり、うまくいかないことを他人のせいにしたくなったら、再読しよう。そしてケンヤに喝を入れてもらおう。