サニーサイド・スーサイド北國浩二/原書房

 とある高校のカウンセリングルーム。ここを訪れた生徒の中の誰かが、自殺しようとしている──? スクールカウンセラーの小此木はそれが誰なのか懸命に探す。そして物語は、「その日」から遡って、カウンセリングルームに来た生徒たちひとりひとりの生活を紡いでいく。果たして自殺を考えているのは誰なのか。小此木はそれを止めることができるのか?

 原書房からってことで本格ミステリとしての楽しみ方を期待してしまうと、正直なところちょっと点が辛くなる。ある人物の扱い方と帯の文言のせいで「あ、もしや」と見当をつけちゃう読者がいると思うのよ。あ、推理できるという意味じゃなく、雰囲気からパターン検索しちゃうという意味なので、本格として“簡単”ということではありませんよ。ただパターン分類にハマってるという点で本格としては──という感想になっちゃうんだが、でもそれはたくさんある物差しの中のひとつには合わないというだけで、小説としての瑕疵じゃない。

 もう読んでて心が痛くて痛くて。手に醜いイボがあるというだけで周囲から忌避され、キャッチボールの相手もままならない野球部員。モンスターペアレンツを持つ、自己チューな女生徒。バスケでプロになるんだから勉強の必要はないと言いきるバスケ特待生。リスカ常習者。陰湿ないじめに遭う女生徒。あることの代償にクラスメイトの下僕になる道を選んだ優等生──。
 誰もが、高校と言う狭い狭い社会の中で、でもそれが自分の世界のすべてになっていて、そのせいで辛い現状を打破できないでいる。イボのある野球部員の言葉がそれを示している。イボは1〜2年で治るという医者の言葉に「それじゃ高校生活は終わってしまう」と叫ぶのだ。将来なんて、この年頃にとってはまだファンタジーの領域。今の社会、今の人間関係、今の自分。それが世界のすべてになってしまう年頃。

 彼らのヒリヒリするような足掻きは、読んでいて痛い。痛々しい。笑い飛ばせない、開き直れない、そんな弱さと不器用さが辛くてたまらない。こういうオムニバス風に6つも7つも〈辛い話〉が並行して語られると、読者は必ずどこかに自分を見る。当事者として似たような経験のある人には耐えられないだろうし、当事者じゃなくても、他人の気持ちを慮ることができず尻馬に乗って騒いだり、我関せずを決め込んだり、思い込みが強かったり、他人をバカにしてたりというような、誰もが多かれ少なかれ身につまされるように作られている。感情移入するなという方が無理だ。ある意味、ずるいよこれは。イマドキのいじめのディテールなんかもう、ホントに心が荒むしさあ。

 そして同時に腹が立つ。表面張力でやっともってるような彼ら。一押しすれば水がこぼれてしまうであろう彼らに対し、「戦え」とは言わない。でもどうして助けを求めるなり引きこもるなりして、自分を救おうとしないのか。彼らを見ていて一番辛いのは、誰一人として自助努力をしないことだ。嫌だ、辛い、どうして私がこんな目に。そう叫ぶだけで、自分を変えようとせず、周囲が変わることばかり望んで、そして待ってる。それが腹が立つ。

 それはおそらく、高校生に限ったことではなく、現代社会を描く上で最も典型的な病理なのだと思う。彼らは小此木の助けを得たり、ついに表面張力が限界を超えてブチ切れたり、たまたま偶然に恵まれたりしながら、少しずつ変わっていくわけだが、それは彼らと小此木の物語。ストーリーの中核であるはずの悲しい出来事は、何も生まなかった。この出来事は、時がたてば「高校時代にそんな出来事もあったよな」というレベルにまで忘れられていくだろう。それが本書最大の「残酷さ」であることを読者は知らねばならない。